ので、なぜ悪いかを筋道を立てて説明することが出来ないではないか。
 さてここまで来て明らかになる一つの関係を注意しなければならない。実際、道徳位い批判するに容易でないものはないのである。水準の低い人間は最も容易に一切のものを道徳による批判[#「道徳による批判」に傍点]に還元して了う。戦争することは善いことか悪いことか、神社に参拝することは善いことか悪いことか、小学校の児童はすぐ社会問題をこういう道徳問題に還元する。修身教育がそういう子供の態度を養成するのである。だがこの最後の判断の転嫁の地である道徳そのものは、一向判断の対象になり得ない。――それは他でもないのだ。ここで云う道徳なる常識物は、何よりも科学でない[#「科学でない」に傍点]という規定を有っているのである。理論的な分析を放擲するということが、子供が一切の問題を善いか悪いかに還元する所以なのであり、そして夫が同時に、この「善い悪い」自身が常識によって問題にされ得ない所以なのだ。「善い悪い」は善いか悪いかを問う限り、もう問題は残っていないのが当然だ。常識による道徳[#「道徳」に傍点](夫はその建前から云って不変で絶対で神聖不可侵なものだ)とは、科学の反対物[#「科学の反対物」に傍点]を意味するための言葉だ。
 そこでこの道徳の批判、道徳のこの常識的観念の批判、つまり道徳の不変性乃至絶対神聖性の打倒、の唯一の武器、唯一の立脚点、唯一の尺度は、科学[#「科学」に傍点]でなくてはならぬ、という結論になるのである。俗間常識による道徳なるものは、単にそれが必要であるとか有用であるとか、又吾々人間社会の習慣や伝統であるとかいう、事実の認識だけでは不充分なのであって、そうした科学的な説明を含んだ一個の事実である以上に、特別な意味での価値を持っていなければならず、その価値のおかげでこの科学的な規定が殆んど完全に蔽い尽されて全く別な相貌を呈していなければ承知しない。科学からは全く異った別なこの相貌が道徳のもつ神秘性なのだ。で道徳は専ら神秘性[#「神秘性」に傍点]の主体として、社会人相互の間に受け渡され流通するものである。丁度紙弊[#「紙弊」は「紙幣」の誤記か]は、それが国営銀行で金貨に兌換されて初めて価値を受け取るのだということを全く忘れられた心理で、紙弊[#「紙弊」は「紙幣」の誤記か]という紙片として尊重されるように、道徳は事実としてのその合理的科学的な核心を忘れられて、専らその神秘的な外被として、尊重されるのである。常識で云う所謂道徳は、例えば人間の社会生活の規範(実は階級規範と云った方が理論的に正確なのだが)というだけのものではない。それが仮に永久不変な人間の規範であってもまだ所謂道徳ではない。それが絶対化され神聖化され、かくて完全に神秘性を与えられた時初めて、世間でいう所謂道徳(この常識的な道徳観念)となるのだ。――常識が道徳を好むのは、常識が科学を恐れるからである。科学の代りに徳を、これが現下に於ける一切のブルジョアジーの乃至ファッショの、デマゴギーの秘密だ。
 科学は、理論は、事物の探究を生命としている。之は科学自身の批判を通して行なわれる。この点常識にぞくする。処が道徳に関しては常識はそうは考えない。道徳は事物の探究[#「探究」に傍点]ではない、寧ろ事物を(勝手に常識的に)決める[#「決める」に傍点]武器だ。道徳自身を批判した処で、道徳なるものが探究でない限り、何の役にも立たぬ。そして道徳そのものを探究すること、之は道徳自身の仕事ではなくて、道徳学とか倫理学とかいう専門的学問の仕事だ、と常識は考えているのである。――だが以上は、道徳を絶対神聖物と考える常識から云って、完全に首尾一貫した観念の展開に他ならない。
 本当を云えば、道徳なる一定領域にだけ道徳の世界があるのでもなかったし、善悪という価値対立やまして善価値だけに道徳の本質があるのでもなかったし、道徳律だけが道徳でもなかった。まして価値の絶対神聖味とその神秘性とに、従ってその没科学性に、道徳の真髄があるのでもなかった。こうした考え方は要するに道徳を、夫々の意味に於て固定化して考える結果に過ぎなかった。道徳はそうした固定物ではない、そういうものでなくなるだろう、又そういうものであってはならぬ。道徳とはそれ自身一つの探究の態度か又は探究の目標を指すのだ。道徳は事物の探究だ(どういう仕方による探究かはズット後に述べよう)。と同時に、当然なことだが、道徳自身が常に探究されねばならぬ、道徳は常に批判され改造されねばならぬ。社会的矛盾が今日のブルジョア国家に於てのように根本的である場合には、道徳は根本的に批判され改革されねばならず、矛盾が比較的瑣末な場合には瑣末な点に於て批判改革されねばならぬ。そうしなければ道徳は道徳として成立せず
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