事実と無関係に、単に善悪という対立だけを道徳現象だと云って片づけることは出来ないことだ。領域という空間と関係なしに、価値の対立という力関係を考えることは、全く人工的なことに過ぎないだろう。道徳は一つの領域だ、処が道徳的であることは価値対立の一方を選ぶことだ。この対立関係も領域も、どれも道徳的であると云う他あるまい。――だがこの点は常識が心配する程困難なものではなく、吾々にはこの常識の二つの矛盾した要求を調和させることは容易だ。例えば人間界という一つの領域には色々の人間が充満している。どの人間も間違いなく人間だ。どの人間も領域的には皆人間的[#「人間的」に傍点]だ。処がその内にこの人間界全体と対比して見て比較的人間界の一般共通の性質をよく代表しているのとそうでないものとの区別が、事実この領域内の内容に就いて発見される。前者はそこで、価値的に云って人間的[#「人間的」に傍点]であり、後者は之に反して人間的でないと云われることになる。この関係はそのまま道徳にもあて嵌まる。道徳という領域の内容をなす夫々の道徳現象は、領域的には皆道徳的[#「道徳的」に傍点]だ、処が価値的にはその領域に最も相応わしいものだけが[#「だけが」に傍点]最も道徳的なのだ。一般に価値は各個現象が全体現象に対して持つ比例の区別を、抽象して強調誇張する処から発生する。道徳価値の対立は道徳領域の内容たる全道徳現象の単なる比例関係[#「比例関係」に傍点]から発生するのだ。
善価値(悪という反価値の対立物としての)にだけ道徳を認めようという常識の権利とその失権との消息は右によって略々明らかになったと思うが、併し道徳を価値的に道徳的[#「価値的に道徳的」に傍点]であることに限定したり又は専らそこを強調しなければ気が済まなかったりするのには、他に一つの動機が伏在しているのである。云う意味は、道徳なるものを人間の或る特別な独立な属性と考えていると云うのだ。つまり人間性には善の性質と悪の性質とがあって、善の性質を有った人間が、善人であり道徳的人物であり、悪の性質を持ったものが悪人で不道徳漢だというわけなのだ。或いは人性初めから善であるとか又は初めから悪であるとかいう穿鑿も亦、ここにぞくする考え方なのである。これによると道徳とは結局人間性の一性質に過ぎぬわけで、人でなしは往々にしてこの大事な人間性を欠くが故に人非人だということになる。
人間の性善と性悪との対立によって、その善性だけを人間の道徳と見做すということは、事実甚だ通用性を有った常識であることを注目せねばならぬ。スティーヴンソンの『ジーキル博士とハイド氏』(この小説はキリスト教を唯物論から擁護しようとして書かれた点が探偵小説以外の興味をなすが)は、この常識の文学的な典型だろう。ジーキル博士は善で道徳であり[#「道徳であり」に傍点]、之に反してその二重人格の片割れたるハイド氏は動物性や野性を帯びているので悪であり道徳でない[#「道徳でない」に傍点]、と云った調子である。この常識は人間の心理や文学的真実に無知な新聞の社会面などに於ても、価値評価の原則になっている。あそこで「悪」とか「社会悪」とか呼んで判ったように説いているものの空疎さは、何人も気付いている処と思う。
この常識は極めて容易く人格者と非人格者とを区別する(〔貴族院や衆議院〕の議員候補者はいつも人格者として紹介される)。まるで人格という属性を有った人間と之を欠いた人間とがいるかのように。之は又知識と人格とを区別する原理ともされている。知育に対する徳育、頭に対する肚、能力に対する精神、等々の卑俗な対立区分は、どれもこの常識的道徳観念から来るのである。――領域に就いて、道徳が独自な独立した一領域に他ならぬと考えたように、それと同じ調子でこの常識は、人間性に就いて、道徳が独自な独立な一属性だと仮定する。人間の肉体のどこかに、道徳の器管でもあるような風だ。
悪というものが反道徳であり、之に反して善が道徳的だということを、疑う人はいない。善とか悪とかいうことが何であるかは今殊更問題にしないとすればだ。そして善悪の価値対立が道徳現象だということを疑う人もいる筈はない。だがそういうことと、人間生活の諸事象を、之は善之は悪という風に篩い分けるということとは別だ。処が道徳を善悪の対立につきると思ったり、又善だけが道徳だと云いたがったり、又そこから人間に道徳的器管を想定したくなったりするのは、他の必要からではないので、正に之は善之は悪という風に、節分の豆撒き式の処置を取ろうという心がけからなのである。常識のこの安易な心がけが、道徳に就いての理論を妨害する第二の性質であるのだ。――道徳とは何か[#「道徳とは何か」に傍点]という問題では、すぐ様例の第一の領域道徳主義の常識が妨害を試み
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