理的」に傍点]意義自身を初めて見出し得るものも亦、史的唯物論でなければならぬ。
 かくて道徳とは、要するに社会に於ける制度[#「制度」に傍点]と夫が社会人の意識に課する処の社会規範[#「社会規範」に傍点]とになる。尤もこの際、社会科学的な道徳観念はなお通俗常識を仮定しているので、制度という習俗的「実体」自身を道徳に数えることを、多少躊躇するだろう。道徳なる領域・イデオロギーは、単に習俗という客観的に横たわる制度のことではない、それならば一つの社会機構であってまだその上層建築としてのイデオロギーではないかも知れぬ。この習俗が社会人の意識に対してゾルレンの意味を有つ時初めて、そこに道徳というイデオロギーの一領域がなり立つのだ、と考える。で道徳とは、つまり社会規範だ、ということに大体落ちつくのである(なお、倫理的「実体」を発見したヘーゲルがカント倫理学によるゾルレンを最も軽蔑したのは、今の場合興味のないことではない)。
 この社会規範[#「社会規範」に傍点]なるものが俗に[#「俗に」に傍点]「道徳」と呼ばれる処の、或いは神来の或いは先天的の、或いは永遠な理性に基く神聖な、価値物の実質だと考えられる。云うまでもなく社会規範とは社会生活が円滑に進行出来るための行為の標尺になるもののことだが、処が社会生活そのものの本質はその物質的根柢から理解される他はない。処が社会機構の本質、終局的な要因は、社会の生産機構(物質的生産力と生産関係)である。従ってこの社会規範は社会の生産機構乃至生産関係からの、云わば物質的な歴史的所産に他ならない。一切の生産様式は、社会規範となることによって初めて、人間の社会生活を、人間の社会に於ける生産生活を観念的に統制し得る。社会規範は社会の生産様式の反映だ。――例えば殺人行為について考えて見てもよい。古代奴隷制以前の社会では、捕虜は皆殺されることになっていたらしい。処が奴隷労働力が社会の生産力として充用されるような生産様式即ち(奴隷制)になると、捕虜を奴隷にする代りに殺して了うことは、禁じられる。殉死は往々最高の道義的殉情の発露だと説明されるが、之は家臣という奴隷が一つの私有財産であったという所有関係(生産関係の直接の表現)を示すに他ならぬ。姨捨山は不生産的な労働力を維持するだけの労働営養(食物)の過剰のない生産組織の或る時期に起きる。それから、帝国主義戦
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