う観念で何より頼みにしていた道徳のあの絶対性は、道徳が一つのイデオロギーだというただ一つの言葉で、根柢から揺ぎ出すのである。社会科学的道徳観念が最初から通俗常識乃至ブルジョア倫理学による道徳観念を超克している点は、云うまでもなくここにあるのだ。――そのためイデオロギーとしての道徳という観念が、道徳の通俗常識の一切[#「一切」に傍点]の特色を悉く払い落して了ったものだ、というような感じも産まれて来るのだが、必ずしもそうばかりではないということを、私は今云った。
史的唯物論によれば、道徳の本質はその社会的性質[#「社会的性質」に傍点]に存する。理論的社会科学では人間は、個々の個人として理解されるのではなくて、社会に於て社会的生活をなす個人をしか意味してならぬのは云うまでもない。個人とは社会的個人だ。ブルジョア倫理学の多くのものは処が、この個人を社会から切り離して了って単なる個人と見做し得るという想定に立っている。従ってそれに基く倫理学的な道徳とは、その材料となる内容は何であるにせよ、その様式から云えば、全く個人[#「個人」に傍点]自身の内にしか根拠を有たないもののことだ。人格の自律とか自由とか責任とか良心とかいうものは、個人に於ける道徳のこの倫理学的根拠を云い表わすために選び出された言葉に他ならない。その意味で、多くの倫理学は、道徳を個人道徳[#「個人道徳」に傍点]と考えている。道徳の本質はその個人的性質[#「個人的性質」に傍点]にあると考える。ブルジョア社会は個人のアトミスティックであったから、最高の哲学的原則は何によらず個人の内に求められる他はない、そうしなければ全く外面的な機械的な尤もらしからぬ説明になるからだ。道徳も亦そこでは、専ら内面的[#「内面的」に傍点]なものとなる。処で社会科学的道徳観念によると、道徳は社会的本質のものだというのである。尤も之は道徳の歴史的発達の事情を少し考えて見ればすぐ判ることだし、又原始社会で現に行なわれている事実を見ればすぐ気のつくことだ。処が倫理学は、倫理的な価値の問題がこうした事実の問題とは関りなく成り立たねばならぬという風に考える処から、この事実に対して充分に倫理学的な尊敬を払おうとしない。事実の理論的分析を因果的に果そうとする史的唯物論が、この事実を正当に尊重し得る最初のものであると共に、この事実が持つ処の倫理的[#「倫
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