ならぬだろう。だから之を以てすぐ様、倫理学的思想とすることは出来ないわけだ。――元来今日云う処の所謂倫理学(近代倫理学)は、主にイングランドを中心として発生し又隆興したものであって、イギリスの倫理学・道徳科学・道徳哲学、等々がその最初の代表者なのだ。トーマス・ホッブズが人間社会に於ける善悪の区別を、社会支配の法的・法律的な合法性と非合法性との区別に解消しようとして以来、そして之は彼一流の人間論(マキャヴェリの系統を引く処の人間狼説)に立脚するのであるが、それ以来、イギリスの哲学に於ては、人性論に立脚して、専ら道徳理論が盛大に展開された。而も之がイギリスの哲学全体を可なりに永く支配した。で近代倫理学の存在権は、歴史的にはここで確立されたものと見てよい(H.Sidgwick,Outlines of the History of Ethics参照)。
尤もホッブズの思想は必ずしも所謂「倫理学」ではない。又イギリスの道徳理論家(即ちイギリスの多くの哲学者だが)が皆、その道徳理論を「倫理学」と呼んだわけでもない。だが哲学史に於ける彼等の業績は、倫理学という或る独立独自な学問[#「独立独自な学問」に傍点]を世間に向かって承認させるには充分であった。尤も極めて日常常識的なイギリスの哲学者自身は、倫理学なるものの学問としての独立性や限界や対象の規定方などに就いて、あまりアカデミックな興味は有っていなかった。彼等にあっては倫理学はもっと遙かに活きた実際的な意味を持っていたからだ。倫理学という観念を却ってイギリスの倫理学者達に向かって教えたものは寧ろ、講壇哲学的学校訓練を持っていた後のドイツの哲学者であって、特にカントの批評的道徳哲学はここに与って力があった。T・H・グリーンの『倫理学序説』は、ドイツ哲学によって講壇化された処のイギリス倫理学、の代表だと云ってもいいだろうと思う。だがグリーンの倫理学と雖も、政治上に於ける自由主義運動と深い実際関係を有っていたことは、注目すべきだが。
こうして歴史的権威を認められた所謂「倫理学」は、今日では往々、それの科学論的な省察――方法論の如きもの――から始められねばならぬと考えられている。ドイツの哲学教授の手によると、倫理学の問題は道徳という広範な現象の問題であるよりも先に、倫理なるものに就いての学問や科学や哲学自身に関する問題であるように見え
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