、即ち事物の道徳的探究という道徳の存在理由が成り立たなくなる、一切の意味での道徳は成り立たなくなるのだ。――道徳は探究であり又探究されるべき処のものである。
 総じて常識によれば、一方に於て道徳は著しく愛好されているにも拘らず、他方に於ては著しく面倒臭さがられているのだ。と云うのは、道徳を他人にあて嵌める時には心が躍るが、之を自分にあて嵌める時には気が重くなるというのが、常識的俗物達の習性のように見える。だがいずれにしても彼等の常識は、道徳を何等かの単なる外部的強制[#「外部的強制」に傍点]だと想定しているのである。人が自分に之を加えようと自分が人に之を加えようと又自分が自分に加えようとだ。その意味で道徳とは常識的に云えばいつも既成物のことだ。だから常識的俗物は好んで道徳を口にするに拘らず(人の噂や評判又告白さえを見よ)、実は道徳を少しも尊重せず又愛してなどは無論いない。社会の支配的常識によると、実は道徳位い厄介なものはないのである。
 でこういうことになる。道徳はなる程常識と親密な関係を持っている。或る場合には、道徳的ということは常識的ということであり、常識的ということが道徳的ということでさえある。だが実は、道徳は常識とこそ一致すれ、実は人間生活[#「人間生活」に傍点]そのものに就いてはその常識的意識をさえ満足させないのだ。この道徳は社会人の生活意識を少しも満足させてはいない。だからこの道徳程人間の社会生活の正直な佯らない興味から疎隔したものはない。道学者や腐儒や法律の学者の類が、俗物から軽蔑される所以が之なのである。
 だが以上、常識々々と云ったが、之は専ら所謂常識と呼ばれる社会に於ける下級な平均価的な惰性的な知識のことであって、人間の社会生活を統一する処の生活意識の原則を意味する処のあの「常識」のことではなかった。卑しめられた意味での常識であって、「健全な常識」とか良識とかいう意味での夫ではなかった。この卑しい常識が自分の相手として、或いはその双生児として、常識的な所謂道徳[#「道徳」に傍点]の観念を選んだことは、だから初めから不思議なことではなかったのだ。
 処で私は先に、真の道徳なるものが、常識的な道徳観念では片づかない所以を見て来た。そして今や、その常識そのものに就いても、云わば常識的観念に帰するものと本当の常識との区別を見た。真の道徳[#「真の道徳」に
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