実としてのその合理的科学的な核心を忘れられて、専らその神秘的な外被として、尊重されるのである。常識で云う所謂道徳は、例えば人間の社会生活の規範(実は階級規範と云った方が理論的に正確なのだが)というだけのものではない。それが仮に永久不変な人間の規範であってもまだ所謂道徳ではない。それが絶対化され神聖化され、かくて完全に神秘性を与えられた時初めて、世間でいう所謂道徳(この常識的な道徳観念)となるのだ。――常識が道徳を好むのは、常識が科学を恐れるからである。科学の代りに徳を、これが現下に於ける一切のブルジョアジーの乃至ファッショの、デマゴギーの秘密だ。
 科学は、理論は、事物の探究を生命としている。之は科学自身の批判を通して行なわれる。この点常識にぞくする。処が道徳に関しては常識はそうは考えない。道徳は事物の探究[#「探究」に傍点]ではない、寧ろ事物を(勝手に常識的に)決める[#「決める」に傍点]武器だ。道徳自身を批判した処で、道徳なるものが探究でない限り、何の役にも立たぬ。そして道徳そのものを探究すること、之は道徳自身の仕事ではなくて、道徳学とか倫理学とかいう専門的学問の仕事だ、と常識は考えているのである。――だが以上は、道徳を絶対神聖物と考える常識から云って、完全に首尾一貫した観念の展開に他ならない。
 本当を云えば、道徳なる一定領域にだけ道徳の世界があるのでもなかったし、善悪という価値対立やまして善価値だけに道徳の本質があるのでもなかったし、道徳律だけが道徳でもなかった。まして価値の絶対神聖味とその神秘性とに、従ってその没科学性に、道徳の真髄があるのでもなかった。こうした考え方は要するに道徳を、夫々の意味に於て固定化して考える結果に過ぎなかった。道徳はそうした固定物ではない、そういうものでなくなるだろう、又そういうものであってはならぬ。道徳とはそれ自身一つの探究の態度か又は探究の目標を指すのだ。道徳は事物の探究だ(どういう仕方による探究かはズット後に述べよう)。と同時に、当然なことだが、道徳自身が常に探究されねばならぬ、道徳は常に批判され改造されねばならぬ。社会的矛盾が今日のブルジョア国家に於てのように根本的である場合には、道徳は根本的に批判され改革されねばならず、矛盾が比較的瑣末な場合には瑣末な点に於て批判改革されねばならぬ。そうしなければ道徳は道徳として成立せず
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