が注意すべきは、仮に道徳規範や道徳律が永久不変な形而上学物と考えられずに、歴史的に変化発展するものと想定されているような場合でも、この想定は多くは単なる想定に止まるものであって、実質的には道徳律を変化発展するものとは考え得ていないのだ、という点である。一体一定の内容を一時的にせよ固定させない限りは、道徳規範にも道徳律にもならないことは云うまでもない。処が道徳内容を一時的にしろそういう固定物に転化することは、つまりその後之を公式として運用するためでしかない筈だが、そうならば之は道徳を例の徳目運算におきかえることに他ならない。道徳律や道徳規範を専ら道徳として尊重するのは、この道徳律や道徳規範がなるべくそのまま[#「そのまま」に傍点]役に立つような詳細さを備えていることを要求することでなければならぬ。処がそういう一つ一つの事項にレディメードに役立つような詳細道徳律は、未だかつて生きた変化する道徳を云い表わし得た例しがない。所謂修身の徳目以外に事実詳細道徳律はないのである。
「万国のプロレタリエルは結束せよ」というのを仮に道徳律[#「道徳律」に傍点]として選んだにしても、之は決してそのまま徳目的に役立つ詳細道徳律ではあり得ないだろう。――だから道徳の名に於て道徳律や道徳規範ばかりに力を入れる常識は、決して道徳の理論的理解を促進するものではあり得ないので、こうしたものを含めて私は、徳目道徳主義の常識としての惰性を指摘すべきだと考える。
道徳が不変不動な絶対物であるという常識の方は、この徳目主義乃至道徳律主義に較べればまだ度し易いとさえ云っていいだろう。なぜというに、この批難はあまりに屡々云われていることで、今日では寧ろそれ自身常識に化しているだろうからだ。のみならず之はすでにカント自身に於ても意識されていることで、であればこそ彼はその無上命法という最高道徳律を、特に形式的[#「形式的」に傍点]なものとして強調したわけだ。それに、道徳律の時と所によるヴァラエティーに就いては、近世以来殆んど総てのブルジョア実証社会理論家の研究が常識となっている。この常識を知らないものは高々眼のない哲学者か倫理学者先生に過ぎないのだ。
だが道徳の不変性を要請すること、それは道徳を専ら徳目乃至道徳律として見なければならぬという常識と結局一つのものに帰するのであったが、之は、単に事物を固定した運動
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