る、何が道徳か[#「何が道徳か」に傍点]という問題ではこの第二の善悪道徳主義の常識が妨害を試みる。吾々はこの常識を掣肘しなければ、道徳を理論的に取り扱うことが出来ない。
この第二の常識的惰性に直接関係あるものは、云わば徳目[#「徳目」に傍点]道徳主義である。道徳を善悪問題と決めて了い、やがて道徳は善だと決め、それから道徳は人間の善性だと決めるから、ではその善性は何々かと云うことになって、知仁勇とか、仁義礼知信とか、忠孝とか、忠君愛国とか、三従の婦徳とか、という徳目(Virtues)が念入りに算え上げられる。で今やこの徳目を覚えることが、之を学習したり暗記したりすることが、そしてこの徳目の活用宜しきを得ることが、道徳となる。こういう常識による道徳は修身[#「修身」に傍点]なのだ。之は徳目の運算なのだから教科書も可能だし試験も可能だ。道徳的なカテキズム(教義問答書)や倫理的カズイスティクが、スコラ論理学のような意味で可能になる。――で人間の人間的性能は諸徳目の化合物かコロイドか混合物と見立てられる。
だが修身の特色は、この徳目を永久不変な人間性の元素と見立てることだ。これは道徳内容の(形式だけのではない)固定化を意味する。この徳目を社会にまで及ぼしたものが、国民道徳や公民道徳なのである。国民や公民の徳目は云うまでもなく絶対不動な人間性と絶対不動な国民的伝統とに根ざしていなくてはならないとされる。そう仮定することは、この場合の道徳が有つべき社会的強制力、而も外部的な社会強制力を合理化するために必要なのだ。かくて一つ一つの社会的道徳規範[#「道徳規範」に傍点]や道徳律[#「道徳律」に傍点]が、道徳の何よりの実質だということになる。そして道徳を道徳規範や道徳律として強調しようという常識は殆んど凡ての場合、その規範乃至道徳律が永久不変な内容でなければならぬと仮定している。――かくて徳目道徳主義の常識は、一般に道徳の絶対化、道徳の形而上学化、と必然的な連関を有つのである。この道徳に関する非歴史的な観念は、道徳に就いての常識観念の内最もよく注意されている欠陥であって、事実、道徳全般の一つの秘密は、事物の変化を観念の不変物でおき代えることにあると云ってもいいからだ。このようにして、道徳を道徳律[#「道徳律」に傍点]だけに集中しようとするのが、常識的な道徳観念の第三の欠陥だ。
だ
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