は、科学の目標を、従来の公認常識に従って、認識[#「認識」に傍点]にあるとしながら、他方之を技術という生産[#「生産」に傍点]の過程に結びつけようとするために、勢い、科学を外部から取り扱わなければならなくなり、従って前述の事情によって、科学を手段的に取り扱わざるを得なくなった、そのためである。認識というカテゴリーと、生産というカテゴリーとは、不覚にも、旧来の論理学では連絡がついていなかった。わずかに人間学其の他というような狭い盆地で、ホモ・サピエンスとホモ・ファーベルとが並べられた程度にすぎない。
技術が生産(第一義には物的生産のことである)を目標とすることを疑うのは、まず不必要だし又不可能であろう。技術を外部から何かの手段と考えればその目的は何とでも云える、人類を解放するのも又人類を無能にするのも(実際人間は羅針盤やバスのために伝書鳩や犬よりも無能である)、技術の目的と云えよう。しかしそういう目的論ではなくてそれ自身の内部的目標が今問題だ。技術というカテゴリー[#「カテゴリー」に傍点]が問題なのだ。すると技術の目標が生産にあることは、当然すぎることである。
併し同様の意味に於て、科学の目標は認識[#「認識」に傍点]であるだろうか。之は人も知る通り、古来の哲学学派の一見解にすぎないようだ。元来|巫術《ふじゅつ》文化の原始社会などでは成り立たない常識である。今日までこの見解は色々の方面から抗議を受けている。不躾なニーチェなどは有力な抗議者である。ただこの反対が今日まで学究的な形の哲学としては、認識論や科学論としては、ほとんど現われていない、というまでなのだ。すると科学の目標は認識だという想定は必ずしも絶対ではないことになる。もしこれが絶対でないとすれば、この想定を変更すれば、例の行きづまり、科学と技術との結びつきについての議論の行きづまりを、解く可能性があるだろうということになる。でこの時にこそ、科学の目標を技術と直接結びついたものとして設定すべきであろう。科学の目標を独立に(認識[#「認識」に傍点]というように)設定して了ってからでは、間に合わないので、自然、科学をその目標以外のものによって外部から手段化せざるを得なくなる。われわれは手続きを一歩根本へ向って進めて、予め科学の目標とするものをすでに技術自身に直接結合したものの内から選定しなくてはならぬ。
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