実は節操のカリケチュアに過ぎないということは誰でも知っているのであって、節操とは本当は、道徳的な首尾一貫[#「首尾一貫」に傍点]のこと以外のものではなかった筈だ。
処で道徳上の首尾一貫と云っても、古来の陋習を固執するというのでは頑迷以外の何ものでもないわけで、認識の怠慢を示すものに他ならないが、そういうものでは元来節操でも何でもないことになる。で、どうしても、道徳上の首尾一貫ということは、認識[#「認識」に傍点]の首尾一貫をば直覚的な形で代表する処のもの以外にはない、ということになる。道徳的な節操とは、認識の首尾一貫、認識の節操ということだ。
認識の節操などというと、言葉は甚だ作文的で、従って無責任に聞えるかも知れないが、それなら認識の論理的統一[#「論理的統一」に傍点]という平凡な言葉で置きかえても構わない。
併しここから私は一つの社会科学的な公式を導き出すことが出来るのである。即ち、科学的認識の上での論理[#「論理」に傍点]の欠乏は、道徳意識の上での節操の欠乏に対応する、という公式である。例えて云えば哲学[#「哲学」に傍点]があるかないかが、彼が転向[#「転向」に傍点]するか
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