ではない。そういうような利用をやるのは、文学的認識が如何に科学的認識とつながっている[#「つながっている」に傍点]かを忘れるからである。科学的認識の出鱈目な作家の自我は、文学的真実への第一条件を欠いているのだ、特に社会科学的認識(それから来る社会的情熱)に就いてそうだ。文学的認識は、科学的認識の道徳的形象化[#「道徳的形象化」に傍点]以外のものではないからである。
モラルというと如何にも気が利いているが、道徳というと道学的に聞える。だがモラルでも案外道学的なニュアンスを有っている。モラルは作家の良心や精進みたいなものに制限されているようだ。併し世俗市井の風俗[#「風俗」に傍点]も立派に道徳的なものなのである。云わば風俗も道徳=モラルの内容なのである。――今日の文壇の尖端ではプロレタリア的モラル派と人民的風俗派とが対立しているように見える。両方とも人気がある。だが私は云いたい。モラル派には「風俗」を与えよ、風俗派には「モラル」を要求せよ、すれば夫が「道徳」になろうと。
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5 社会思想と風俗
一 道徳的論理と科学的品行[#この行はゴシック体]
世間では道徳という
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