会認識に於ける常識屋が多数を占めているのだ。そして夫がみずからは文学的な「非常識」屋だというのだ。
ショーロホフの『開かれた処女地』には、共同農場に於ける小家畜(禽)共有の失敗が詳しく描写されている。勿論之は家畜の話しではなくて主人公の人間的経験の話しである。処がこの間発表されたソヴェート連邦の改正憲法草案には、この小家畜(禽)共有の廃止が、そっくりそのまま出ているので、私は今更この作家の社会主義的リアリティーに感心したのだが、こういう内容[#「内容」に傍点]を生かすものをこそモラルとか道徳とか呼ぶのでなければ、私は到底こうした言葉を信任する気にならないのである。
私が岡邦雄氏と連名で書いた『道徳論』は、モラル乃至道徳という観念をどういうものとして捉えれば、吾々は道徳先生と文学青年との宿命を免れ得るかということを、少し研究して見たわけだった。
三[#「三」はゴシック体]
モラルというのは勿論道徳[#「道徳」に傍点]ということで、別に専門的な(?)術語や何かではない。言葉のフェティシズムに陥らないために、以下道徳という俗間用語でおきかえよう。
さてこの道徳だが、今日の文
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