学のことにもなり兼ねない。だからもしモラルを性的な本質のものだとすれば、汎セクシュアリズムともいうべきものになる(之は今日日本で流行っている)。――人生は生産機構から解明される代りに、性衝動から説明されたり、人間性の展開とされたり、身辺心理の短篇集になったりする。之ではモラルは人生のうわ澄み[#「うわ澄み」に傍点]みたいなものに過ぎなくなる。事実モラルという文学用語は直接そういうものを思わせるに充分だ。
なぜ文学者が道徳[#「道徳」に傍点]と呼ばずにモラルと呼ぶか、それは宿屋とホテルとの相違に類することでもあるが、併しそれだけではなく、右に云ったようなうわ澄み主義[#「うわ澄み主義」に傍点]がブルジョア文学の身上であることを告白するためだ。なるほど道徳(倫理はまだしも)という日本語で呼ぶと、「道徳」に自信のある連中が忽ち声を聞いて集って来る。その顔触れを見ると、道学者や倫理先生やその手先達だ。而もその手先には案外文学探究者や自称「悪党」さえいるのだが、これはたまらない。そこでモラルということになるのだが、併しモラルと呼ぶと今度は文学至上主義者ばかりが集って来る。そしてその内には案外社
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