姿や世界観の形だ。
 だからこそモラルは風俗となって現われ得る訳で、しかも市井身辺の風俗ともなって現われ得るのである。夫が軽風俗といったものである。事実風俗はいつも道徳的なものだ。服装や趣味はいわばその人間の人となりを示すだろう。風体は彼の人物をいい表わす。風俗壊乱は道徳破壊の最も日常的なものだ。
 風俗そのものはこのように道徳的な徴候をもっているのに、風俗を描いた文学の方が一向モラルを持たない場合があるという現象は、これは何としたものだろうか。重ねていうがモラルとはただの心理のことではない、むしろ行動のシステムのことだ。それによって読者の生活意識がひきしめられたり駆り立てられたり整頓されたりするその機構のことだ。ところがそうしたモラルを殆ど全く持たないような作品が、立派に雑誌には載っている。例えば『中央公論』(三六年七月)にのった「青葉木菟」(万太郎)とか「老ぼれ」(白鳥)とか「山女魚」(滝井)とか、の類を思い起こせば事は足りるだろう。
 無論この内から故意にモラルを導き出そうとすれば、それは読者の勝手によって、常に可能なことだ。如何なるセンチメントもモラルの溶液をたたえてはいよう。
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