要なものにすることが出来るか、ということだ。少し語弊はあるが、そういえば端的だと思う。
 やがて批評形式の論議は一転して、文芸時評の形式をどうしようかということにもなって来た。これも大部分はお喋りみたいに見えるのだけれども、併し矢張り、どうやったらば文学という温室産のモヤシを社会の汐風に耐え得るものにするか、という興味が根本動因をなしている。文芸時評は専門家の楽屋のぞき的な作品批評や作家批評ではなく、読者に作品や作家の社会的意義を紹介するような大衆的な形でなくてはならぬとか、文学の色々な現象が持つ文学外的な又は文学前的な思想や社会性を摘発するような形の時評にしなければならぬとか、色々にいわれている。
 と同時に、文芸時評の時評[#「時評」に傍点](即ち月評[#「月評」に傍点])という形式もまた段々疑問にされるようになって来た。それというのもこれまでの月評は月々の雑誌に現われる作品についての所謂「作品評」(あの作品は感心した、あの作品は説話体だ。あの作品は化物と格闘している、等々という所謂作品批評[#「作品批評」に傍点]?)に過ぎなかったということへの不満からで、必ずしも月評という様式が
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