だとも自らは称するのであるが、それは今の場合少しも反証にはならぬ。
 処がアカデミーの観念論は、この現象学の欠陥(観念論的欠陥)を必ずしもそのようには理解しなかった。寧ろ不満の種は却ってこの哲学の科学性[#「科学性」に傍点]にあったのである。と云うのは、吾々の人間性情を満足させるような事物の取り扱いを、この哲学は一向やって呉れないということが、不満の中心となったのである。そこで注目すべきものは「生の哲学」になる。今日のブルジョア・アカデミー哲学に於て、否今日のブルジョア常識哲学に於ても亦、最も愛好され又最も勢力のあるのは各種のこの「生の哲学」なのである。
 生の哲学と名のり又名づけられるものには種類が多い。まず第一はニーチェの主意説哲学があるが、之は日本に旧く紹介されて多少の信奉者を得た(例えば樗牛)。今日再びわが国でファシズム・イデオロギーを介して一種の意味を持とうとしているがまだ形をなしていない。それに之はあまり哲学的な学問的な外見を持っていないから後まわしにしよう。そうすると第二にベルグソンの直観論があるが、之も亦古くからわが国に名を知られていた割に広く実を結んでいない。するとデ
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