らない、ということになる。
 でつまり、事物の実在の世界[#「実在の世界」に傍点]と意味の通用の世界[#「通用の世界」に傍点]とが区別されることによって、事物の物的存在は表現の意味的表出に変って了ったわけだ。ゲーテはイタリヤ旅行に際して、歴史上のローマも亦一つの自然であると云ったが、この観念論の方はローマの水道も亦一つの意味の表現である、と云うことになる。なる程そう云えばローマの水道が或る人間的意味を現わしたものであったということは云い現わされるが、ローマの水道の表現する意味とポンペイの壁画やアレナの廃趾が表現する意味とを、この観念論はどう結合しようとするのであるか。高々ローマの工学的精神と淫蕩振りとを結びつける他はない。要するにローマの文明自身を以てローマの文明現象自身を説明するわけである。
 このようなロジックは今日の発達した観念論に特有なロジックだ。表現の論理学とも意味の論理学ともいうことが出来よう。観念論の論理を単に形式論理学という側面からばかり把握してはならぬ。解釈の論理こそ今日の観念論の論理だ。そこでは意味と意味との連関だけが解釈される。之によって事物そのものの実際的な説明
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