という)の説や金銭取立てのからくりや、またその特有なエロティシズムは、社会常識から見て極めてインチキであり、淫祠邪教の尤なるゆえんを示していることは明らかだ。だが西方浄土の説や本山末寺の金銭取立て組織においては、これは敢えて本願寺の敵ではないのである。病気の治療と信心とを結びつけるから邪教だというなら、社会的不幸の治療と信心とを結びつけることは、なぜインチキではないのだろうか。こう考えると、健全な宗教はエロティシズムにはよらぬところの宗教のことにでもなりそうだ。これではお話しにならぬ。
 ところで、次に「生長の家」は自分では宗教でないといっているが、世間ではこれを一種の宗教と認定している。思念しただけで一切の病気・不幸・困難が姿を消すという誇張された精神主義が、即ち宗教だと世間では見ているのである。だが、生長の家自身これを宗教とは考えず、寧ろ凡ての信念の帰着点だと主張していることには、大いに意味があるのだ。というのは、世間では、そういうことが取りも直さず「宗教」ということで、そして同時にそれが「邪教」=「インチキ宗教」というものだと見ているのだからである。――つまり宗教でないものも、そ
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