。そこで、之がインチキな宗教のインチキたるの一要因と見做されるわけだ。
もし得られる予定になってる結果が精神的な御利益ならば、それがどれ程功利的であり打算的であろうと、元々精神の一手で綺麗[#「綺麗」は底本では「奇麗」となっている]に片がつくので、建前上の食い違いがなく、決してインチキには見えない。どんなに荒唐無稽であろうと、正しい信仰である資格をもつことが出来る。元来荒唐無稽であるとかないとかは、精神界だけに止まっている限り問題にもならぬのであって、どんな妄想を懐こうとその内容が純精神的なものに限定されていれば、決して狂人とは認められない。処が俺は神の子であるというような肉体的因果づけなどを主張し出すと、大分怪しくなって来る。自分は神であるとか私は神に会ったとか云い出すと、初めて狂人と見做される。そしてもしこの妄想自身が物的御利益を明らかに伴うならば、彼はもはや狂人ではなくて正にインチキ師と見做されるのである。
「生長の家」のように、一種の宗教運動――精神主義運動――を標榜しながら、それが最も近代的な物質利益の追求の一形態である株式会社活動である時、この矛盾はそれだけで又インチキの
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