くるとかいう限り、一切の宗教はインチキでなしに却って尤もに見えるわけだ。処が自分は神を見たとか観音様に会ったとかいう物理的生理的因果関係を一枚入れると、夫はすでに観念と物質との物的比重に解かれるので、そこで初めて、この人間は山師かそうでなければ狂人ではないか、と気がつくのだ。或る男が海面をノコノコ歩いたと書いてあれば、之はどうも眉唾物だという事になる。思念一つで一切の病気が治ったり、不幸が他人へ身替りしたり、ポンプの水が出たりするという証言は、どうもインチキだということになる。
その意味に於て治療と結びついた宗教教義や宗教行為が、最も容易にそのインチキ性を暴露され得るので、之がインチキ宗教なるものの定義でもあるかのように、既成宗教業者達は云うのであるが、併し之は単に自然科学的な物質的認識に於ける事物の客観的比重をゴマ化したからそう云われるまでで、同じく物質的認識に於ける事物の客観的比重をゴマ化すにしても、その認識が社会科学的なものになると、この支配者社会自身の社会科学的認識の常識そのものが初めからインチキに出来ているので、インチキ宗教と呼ばれることを免れ得ているのである。真理を行う処
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