思われるのである。
一体スポーツが体操をでも中心にして考えるべき体育というものを、その本質とするものでないことは、少し考えて見ればすぐ判ることで、それは文学や映画が修身の手段でないのと同じだ。云って見ればスポーツは一面において服飾や舞踊のような風俗的快感[#「風俗的快感」に傍点]の一種でもあるし、他面においては宴会やサロンや碁や将棋のような社交的娯楽[#「社交的娯楽」に傍点]や勝負ごと[#「勝負ごと」に傍点]でもあるのである。少なくとも体格教育に興味があるのではなくて肉体的魅力や競技勝負に興味があるのだ。そう見なければ今日のスポーツ・ファンの気持ちは理解出来ないだろう。
それはそうとして、野球に関してはスポーツ体育説は愈々空疎なものとなりつつある。今日の六大学野球リーグ戦や、関西では甲子園の全国中等学校野球戦に、人気があるからといって、別に学生のスポーツや体格教育(体育)に世間が興味を持っているのではない。だから夫は文部省的な興味とは少しも関係がないのだ。そのよい証拠は職業野球団のすばらしい人気である。例えば巨人軍は全国至る所で胸のすくような快勝振りを発揮している。こういう妙技に接
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