ファクターとしてのその特異なリアリティー、こういうものはカーライル以後もあまり真剣に注目されなかったのではないかと思う。そういう意味に於ける「衣服の哲学」は、流石哲学好きのドイツでも発達しなかったようだ。
カントはイギリスの新聞に床屋の哲学というのが載っていたと報告しているし、ヘーゲルは靴屋の哲学の批判をやっている。併し哲学に就いては今はどうでもよい。問題は、衣服というものが寝ても起きても実在しているもので、そういう生々しいリアリティーを持っているにも拘らず、このリアリティー[#「リアリティー」に傍点]の特色そのものに就いての理論的考察は、甚だ影が薄いのだが、それはどうしたものか、という点にあるのである。カーライル=トイフェルスドレックは自分が或いはサンキュロットであるかも知れぬ、と弁疏している。サンキュロットとは云うまでもなく、フランス大革命時に於ける一つのプロレタリヤ的な勢力とも見ることの出来る分子で、短袴をつけぬ無礼者の一団のことだ。実際衣裳の思い切った変革は、それがただの流行の誇張や新しがりでない場合(いや新しがりでもそうだが)、多くは思想[#「思想」に傍点]的な意味を有つも
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