ことを示す。つまり現代青年の特色は、普通時の青年が一種の強さを持っていたとは反対に、社会的に弱いということ、支配社会の継子だということなのである。そこから、現代青年と無産大衆との間の、本質的なアナロジー[#「本質的なアナロジー」に傍点]がなり立っているのである。――婦人運動論者の最も進歩的な者は、婦人と無産大衆とを丁度こういうようにして結びつけた。そして彼等乃至彼女達は、子供、少年少女をも亦この婦人になぞらえることによって、之をも亦無産大衆になぞらえた。処が今や、この少年少女がもう少し大きくなって、現代の青年男女になってもやはり、無産大衆になぞらえるような、弱い者だという次第である。
 弱きものよ、汝の名は女なり、と云うのは、無論本当は、女の社会的な[#「社会的な」に傍点]弱さを指すのだろう。そうならば現代では、弱いものは沢山の名を持っている。曰く婦人、曰く労働者農民、曰く無産大衆、そして曰く現代青年だ。だから例えば、現代青年は丁度女のように社会的に待遇されているのである。現代の青年が女のようになったという心算ではない。街頭を日となく夜となく歩く女性化した現代青年も少なくはないが、併し
前へ 次へ
全451ページ中222ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング