八番[#「十八番」に傍点]というものでもあるまい。云って見れば、文学には専門というものはないのだ。丁度生活に生活専門の人間がいないのと同じにだ。云って見れば、作家という専門家や職業家はいるが、文学の専門家や職業家はいないのである。では文学に就いては猫でも杓子でも同じかと云うと、それは又決してそうではないので、丁度人間に人間として優れたのもいれば劣っているのもいて、「偉い」人間と「馬鹿」とがいるように、文学的に優れた人間と文学的に駄目な人間とのけじめは、機械的にはつかないが実際上厳正につくのである。併しだからと云って、偉い人間が人間の専門家で馬鹿は人間の素人だとは云えないように、これは文学の専門家であるないとは別なことだ。
 ではこれはどういう区別なのか。文学的に優れた者と文学的に駄目な者との区別は。――教養[#「教養」に傍点]の問題がそこにあるのだと私は思う。
 尤も教養という言葉は場合によって一定の趣味訓練のことをも意味している。官学的学校教育のあることをさえ意味する。甚だしいのになると観念論哲学にタブらかされた不始末をさえ意味する(ドイツ文化主義者のBildung)。こういう脱落的
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