論としての資格を持ったものは巻頭論文では、まず矢内原忠雄氏の「自由と青年」(『中央公論』)に指を屈してよいかと思う。『改造』の山川均氏「国家社会主義」は寧ろ電力国営論批判として、巻頭論文よりも所謂時評にぞくすべきものだ。と云う意味は時評とは一定の限られた時事問題に即して、原則的な立言をすべきものだというのであって、山川氏のようなやり方の論文[#「論文」に傍点]こそが、実は時評というもの全般のやり方とならなければならぬというのである。
 この矢内原氏の評論に就いて、私は他ですでに手短かにその特色を指摘したので、繰り返すのを控える。現代に於ける進歩的分子の心情と決意と態度とを取り扱ったものとして、ただの空まわりの一般論ではない。だが之に評論の本質を与えたものは、結局「精神的自由」という合言葉なのである。処がこの肝心な中心観念が残念ながら、どうもただのそこいらに転がっているお説教用の原理と本性上大差がないのだ。日本の社会主義には宗教的信念がないから成功しないのだ、と云わぬばかりの主張に帰する。こういう種類の精神的な裏づけをしないと、論文[#「論文」に傍点]が「評論」にならぬのだとすれば、現下
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