識を否定するような事件は恐らく殆んど毎日起きているだろうから、現実の常識的認識としては元来通用しないのだが、現実と要望とを混同することなどは、常識にとっては朝飯前のことだ。
 新聞によると、ところが係りの検事もこの事件の反常識的な心理を解し兼ねていたところ、妹が検事の手許にまで手記を提出に及んだので、これを一読した検事は、これある哉と手を打ったということである。どういう手記かというと、自分の家の血は乱れていて、父は酒呑みで放蕩で、母は何とかで、かねがねこの血統を断ちたいと思っていたので、父母から謀殺の相談を受けたのを機会にそれを引受けた、というのである。全く如何にも深刻[#「深刻」に傍点]な動機であるように聞える。血の悲劇だ、インテリ娘の煩悶が織り込まれている、というわけで、この事件の理解は一段と深められたという風だ(一般に手記のインチキ性については別に)。

   二[#「二」はゴシック体]

 しかしこんな馬鹿々々しいことはこの事件の心理にも動機にもなり得ないのである。少なくとも主なる筋書きとは関係がないのだ。こんな内容の空疎な血の形而上学や、遺伝の信仰は、犯罪行為の美文的自己解釈にはなっても、何等の真理も持たない。こういう空々しい心理的説明で、何か事件の真相をつかんだと考えるような検事(もし新聞のいう通りなら)も検事なら、それをそのまままことしやかに書き立てた記者や編集者もどうかしている。而も新聞が之をドストエフスキーやトルストイによる検察や裁判の文学的検討に比較するにいたっては、完全なナンセンスと云わざるを得ないだろう。
 血の迷信は少しも深刻な哲学でも文学でもなくて、実は極めて皮相な空文句なのである。ヒトラーがドイツの愚民を如何にこの血の迷信によって引きまわしているかを見れば、それはよく判るだろう。例えば癩患などは絶対的に遺伝するものという常識が一頃抜くべからざるものとなっていたようであるから、そういう場合には血の迷信も犯罪の心理的動機としては必然性があるかも知れないが(例えば男三郎の場合)、呑んだくれだとか放蕩だとかいうことの生理的遺伝という観念が、犯行の絶対的な動機になるというようなのは、何といっても造りごとといわざるを得ない。もしそうでなければ、もう一歩踏み込んだ特別な事情がそこに条件となっているのでなければ嘘だと思う。
 私は何も例の妹娘が故意に嘘の手記を書いたとか何とかいうのではない。彼女は自分でも思わないような心にもないことを考えそうな事情におかれているわけだから、大いにそういう嘘を書く必然性を持っているのだ。即ちその意味で彼女の書いたといわれる手記は決して嘘偽りではないと考えて見当違いではない。だが恐らく刑事的に嘘ではないが、文学的には全く嘘だ、と私はいいたいのである。――尤も一寸ばかり新聞に載ったことを元にして、こんなことを兎や角いっても無意味だといわれるかも知れないが、しかし私の問題は、抑々世間の常識をあて込んでいる新聞そのものにそういう載り方をするということ自身にあるのである。その報道が本当でも、間違っていても今の問題の例としては構わないのだ。
 こういう常識の嘘は最近特に新聞紙上に目立つのである。というのはセンセーショナルな社会事象が発生する毎に、常識はショックを受けて、その常識的にまことしやかな嘘を放射するのである。他の例としては若妻殺しの夫の問題だが、これも自分が過失で殺したのを犯罪学的に外部から侵入者の行為と見せかけたものだと仮定すれば、恐らく却って常識的[#「常識的」に傍点]に理解出来るだろうことを(真相は勿論私などの断定の限りでないが新聞に現われた限りの資料を基にしてそういうのだ)、悪く常識的[#「悪く常識的」に傍点]にひねくり回そうとするものだから、容疑者の夫は新聞記者によって性格異常者や猟奇的犯罪性の所有者やにされて了っていた。探偵小説的興味を惹いていたのは、容疑者が自白しないので真相がハッキリしないからという純探偵的な理由からではなく、彼が殺人小説の耽読者であったとか何とかいう猟奇的な理由からのようだ。ここに常識は可なり思い切って錯誤をやっているのだが、世間の常識はウッカリしているわけだ。
 この事件でも、またぞろこの容疑者が私生児であったというような、結局例の血の迷信に基くものへ持って行こうとする。常識はいつでも同じ試みを、退屈でも反覆するものだ。

   三[#「三」はゴシック体]

 社説などは特別だが、少なくとも社会現象の一等日常市井的な現われを取り扱う社会面は、極端にいえば、一種の娯楽のページなのである。別に特殊な社会的関心を自覚していなくても、普通の読者が誰でもまず第一に見たがるのはこの欄なのである。之は明らかに一種の娯楽面であることを意味している。そして、同時に考え
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