現代文明の弊は、裸の代りに着物を着ているということにはなくて、その着物が身体にとって不衛生な性質を有っているということだ。身体にとって不合理な衣服が身体の正常な発育を妨げている。大体同じであるだろう身体に、いくつもの階級的に異った着物を着けなければならぬというのが、現代文明の衣裳のよくない処だ。衣裳が悪いのではなくて区別を強制された衣裳が悪いのである。――而も同じ同一人が、時々異った衣裳をつけることを強制されることもあるのだ。礼服はその著しい場合だろう。冠婚葬祭から始めて、会談食事に至るまで礼装が要る。之がイギリス・ゼントルマン風の偽善[#「偽善」に傍点]というものだ。勿論儀式は人間を音無しくする。それは社会秩序の安寧に対する感謝の黙祷なのだが、処が現代はこの儀式が段々取り行ない難くなる。ドイツの小市民インテリゲンチャの決闘には依然として儀式があるが。――
 礼服が段々役に立たなくなる。又事実吾々は礼服を造っておくことは経済的に仲々出来にくいのである。――かくて問題は衣服[#「衣服」に傍点]の階級性[#「階級性」に傍点]に帰着するのである。
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第二部 教育風俗

 11 教育と啓蒙

 現代の日本に於ては教育家というものは数え切れない程存在している。少なくとも教育という問題に関心を持っている者は、他の関心の所有者に較べて圧倒的に多数だ。教育雑誌の数は雑誌の内で一等多いことは広く知られている。単行本の数も一位から三位とは下らない。
 処が一見教育に関係の深そうな啓蒙[#「啓蒙」に傍点]活動となると、第一にその観念が世間では一般にハッキリしていないばかりでなく、それが社会に於て占めるべき掛けがえのない位置に就いても、少しも徹底した観念が世間で行なわれていない。断わるまでもなく、啓蒙とは教育と同じ観念であり得ない。啓蒙というカテゴリーに這入らぬ教育や、教育のカテゴリーに這入らぬ啓蒙が大事な点であるのだ。処がそれが現代の実際[#「実際」に傍点]社会に於ては簡単に教育というような種類の観念にブチ込まれて了ってさえもいるようだ。だが実はそこに、この二つのものの根本的な区別の一端も亦、最もよく現われている。教育と云えば日本では多少とも国家機構の上で一定の位置を与えられた公認の社会的機能のことと考えられているのであるが、啓蒙は事実今日の日本では、決してそういう確固とした公認の社会的機能などとは考えられていない。この際啓蒙活動は精々知識の普及とか通俗化とか大衆化とかというような形で、教育家の臨時の片手間仕事位いにしか値いしないことになっているようだ。
 とにかく、啓蒙の観念は全く無力だ。啓蒙[#「啓蒙」に傍点]は他方宣伝とも直接関係があるが、反動的支配者による悪宣伝[#「悪宣伝」に傍点](デマゴギー)がこれ程日常行なわれているにも拘らず、日本ではまだ確固たる国家機構による宣伝機関(悪宣伝機関)さえ出来ていないことは、意味があるのだ。実際は大いに行なっているが、そのやり方がまだ国家機構上に目的意識化していない。ナチスの宣伝省に類するものはまだ存在していないのが事実だ。処でデマゴギーとは悪宣伝即ち又虚偽宣伝のことで、つまり本当の宣伝[#「宣伝」に傍点]の社会的内容の入れ替ったものの意味だが、そういうものは取りも直さず、啓蒙の正反対物にも相当するわけだろう。で、啓蒙の反対物たるデマゴギーの方が、国家機構の上で目的意識化された機関を有たない時に、啓蒙や其の宣伝の方の社会的機能も亦、社会的にそういうものとして公認されないのは無理ではあるまい。日本には多数の教育者がいる。それに準じてその亜種であるポプュラライザーやお説教屋も多い。彼等はどれも国家機構の壁に這う処のつた[#「つた」に傍点]のようなものだ。之に反して、啓蒙家[#「啓蒙家」に傍点]というものは現代日本では極めて数が乏しいのである。彼は国家機構の壁の上で勝手に這い回ることは許されない事情があるからだ(私は現代の啓蒙家の代表者として河上肇博士の如きを挙げることが出来ると思う)。
 啓蒙家は教育家でないと云った。社会教育(対社会教育)や成人教育・庶民教育も、それだけでは決して啓蒙ではない。同様に又彼は学者のことでも思想家のことでもないのである。――処が他方に於て啓蒙家は又充分な意味では宣伝家乃至アジテーターとも異っていることを注意すべきだ。宣伝乃至アジテーションになればレーニンの有名な著書にもよく出ている通り、いつも一つの重大な政治活動プロパーの内に這入っているわけで、レヴォリューション時代に於ては反国家的な機能であるが、それだけに正に政治的な活動であり、政権成就後に於ては正に一つの国家活動の要点となる処のものだ。処が啓蒙はそこまで充分には政治的[#「政治的」に傍点]ではないことがその特色
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