えられているような教育のことでもなければ、又人格主義的な自己完成のことでもない。ましてディレッタンティズムとしての教養のことであっても困る。ディレッタンティズムには思想のシステムがないのがその特色だ。思想が増殖しメタモルフォーゼを遂行して行く体系がない。だがそれがなければ本当の教養とは云えまい。教養が今日問題になるのは之を社会的常識[#「常識」に傍点]や社会的関心[#「関心」に傍点]と結びつけるからだ。少なくともそういう常識・良識や関心・興味・によって量られる処の或る実質を教養という言葉によって仮定するのである。処でこの教養という実質が含むものの一つが、「感覚」だ。実際、最近如是閑氏等によって感覚の問題が割合重大視されて来つつあるのである。
三六年九月の『日本評論』の「文章漫談」、同じく『中央公論』の「ラジオ文化の根本問題」、同じく『セルパン』の「日本詩の特殊な存在理由」、どれも感覚と教養の、又特に現代日本人の感覚と教養との、問題だ。「ラジオ文化の根本問題」によると、「直接言語による有力なスピーチ」という原始的な心理的効果が、非常に進歩した機械を手段として表現されるのが、ラジオの感覚的特性だという。だがその結果、ラジオ時代の社会人はラジオの類の「複製」表現に慣らされることによって、「原形」表現に基く純正な感覚を損われるだろう、というのが氏の一つの持論である。
だが之は何となく老婆心の感がなくはない。機械的複製表現も、それに固有な新しいセンスを養成発育させるという事実を、見落してはならぬばかりでなく、ラジオ文化に就いては夫の大衆的普及の方が大衆の感覚の問題から云ってもっと大切だし、同時に又現在のラジオ放送機構によって大衆の思想発達が如何に歪められつつあるかということが大衆の感覚上の重大問題だ。之に較べて複製表現による感覚の変質や粗悪化というような問題は、それだけならば、とり越し苦労といわねばなるまい。つまり芸術的感覚だけに眼界を限るからで、之を広く思想的・政治的な社会感覚にまで推し及ぼして日程に上らせることが必要だろう。――他の二つの文章は、現代日本人の文体に就いて、生活の感覚を説き、古来の日本人の詩歌に於ける「平俗な実感」を説いたもので、多少社会感覚に及んでいる。
感覚――教養――思想という側面から日本人の生活の特色を明らかにしようという企ては、この頃の流行である。杉村広蔵氏はこの特色を「不連続性の思想様式」と名づけた。与えられた国民性の何かの特色をハッキリさせることは勿論必要な仕事だが、併し元来感覚や教養や思想はただの「事実」とは別なものだ。それは矯正され、淘汰されねばならぬ一つの「課題」なのだ。日本の特色をどんなに明らかにしても、それだけで日本人は決して偉くはならぬ。だが今日の日本論者は必ずしもそうは考えていないらしい。感覚や思想には色々のタイプがあろう、だが、それを貫くロジックは一義的に決定されねばならぬ唯一性を有つのだ。
[#改頁]
8 評論に於ける分析型と主張型
或る時或る会合で和辻哲郎教授に会った。話しが偶々有名な某大学総長の性格に及ぶと、教授が云うには、あの人は自分では何物も主張しない人で、それがあの人の特色だと説明した。そして「あなた方には一寸真似の出来ないことですね」とつけ加えた。あなた方というのは多分三木清氏や私などのことであったと思う。
これは仲々面白い言葉だと私は思った。なる程学者という種類の人達は、あまり主張をしようと欲しない。早急な結論を避け、事を慎重に判断するという習慣が、恐らく職業的になっているためだろう。その習慣がやがて何かを主張しようとする意欲を失わせるものでもあるらしい。職業的に不徹底な専門家には往々却って専門外の事物に就いて極めて非科学的な主張をしたがる人も見かけなくはないが、夫はこの職業的習慣が偶々首尾一貫していないまでで、充分に「良心的」な学者は、何ごとに就いても主張という形のことは好まない、という風潮のあることは否定出来ぬようだ。之は一概には貶せないが又一概に感心したり賞めたりすべき性質のものではないと思うが、それは後にしよう。
併し和辻教授が述べた処は、例の総長の学者としての性格というよりも寧ろその実際家としての手腕のことだったのである。考えて見ると実際家も亦、学者とは別な理由で、主張するという態度をあまり好まない。所謂実際家は本当を云えばいきなり実行するか、もし実行出来なければ口にも出さぬという種類の人間だと考えられて来ているのであって、とに角主張ということにあまり価値を置かない人種のことである。少なくとも東洋的乃至日本的な観念によると、実際家とはそういう不言実行の人を云うらしい。ヨーロッパ的実際家にはこの点必ずしもあて嵌らないので、ファシズムの英雄政治家達に
前へ
次へ
全113ページ中30ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング