に直接連続しているのである。真のモラルは一般にそう考えられている通り、所謂常識的なものの否定克服だろう、だがモラル(もっと気取らずにいえば「道徳」のことでもっとアカデミックにいえば「倫理」という名もある)は、社会感覚・社会意識を離れてどこにも成り立つことは出来ない。そうでないようないわゆる「モラル」という言葉は、往々愛用されないではないが、それは一つ覚えからくるナンセンスな方言の典型にすぎない。でそうすればモラル=道徳も元来常識なるものから独立して成り立つことは出来ない。常識こそ一つの低級なモラルであり、モラルこそ新しい常識への進出だ。常識を否定するのにはまず常識から踏みはじめねばならぬ。――こういう意味において文学は社会人にとって、いわばごく健全な[#「健全な」に傍点](常識は古来「健全」なものと相場がきまっている)娯楽性をもっているのが当然でなくてはならぬ。文学の面白さというものの一つはこの社会面的なものにあるのかも知れない。
四[#「四」はゴシック体]
いうまでもないことだが、帝人事件などについては私は何等関係もない。にも拘らず私は人一倍これに興味を覚えた。なぜかというと、それは立派にモラル=道徳の問題だからである。収賄や贈賄が悪いとか、検事の人権蹂躙が人道に反するとかいう意味ではなく、金融資本主義下における金融資本家やその番頭達が、その資本の番犬としての技術的使命を果すためには、如何にブルジョア道徳そのものにショックを与えないではおかないか、またそれを無理にも処罰しようとするブルジョア法律自身が又、如何にこの同じブルジョア道徳に同じくショックを与えずにはおかないか、というような、この社会における活動的支配者のモラルの矛盾に私は興味をひかれるからだ。
堂々たるブルジョアや要路の大官が法廷で泣涕したりするだけでも、単にいくじがないとか態を見ろとかいっては済まされない問題を含んでいるので、正に彼等のやがて又この支配者社会の、モラルの道徳的断層を法廷の舞台にさらしたものにほかならないのである。私はまだ和田氏の『人絹』を読[#「読」は底本では「続」と誤記]んでいないから、この作品そのものについては何もいえないが、少なくとも、こういう種類[#「種類」に傍点]の作品が示唆するところの、社会現象と文学的モラルとの不可欠の連関の要点を積極的にハッキリつかもうとし
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