だとも自らは称するのであるが、それは今の場合少しも反証にはならぬ。
 処がアカデミーの観念論は、この現象学の欠陥(観念論的欠陥)を必ずしもそのようには理解しなかった。寧ろ不満の種は却ってこの哲学の科学性[#「科学性」に傍点]にあったのである。と云うのは、吾々の人間性情を満足させるような事物の取り扱いを、この哲学は一向やって呉れないということが、不満の中心となったのである。そこで注目すべきものは「生の哲学」になる。今日のブルジョア・アカデミー哲学に於て、否今日のブルジョア常識哲学に於ても亦、最も愛好され又最も勢力のあるのは各種のこの「生の哲学」なのである。
 生の哲学と名のり又名づけられるものには種類が多い。まず第一はニーチェの主意説哲学があるが、之は日本に旧く紹介されて多少の信奉者を得た(例えば樗牛)。今日再びわが国でファシズム・イデオロギーを介して一種の意味を持とうとしているがまだ形をなしていない。それに之はあまり哲学的な学問的な外見を持っていないから後まわしにしよう。そうすると第二にベルグソンの直観論があるが、之も亦古くからわが国に名を知られていた割に広く実を結んでいない。するとディルタイの生の解釈学になる。之はジンメルと共に、歴史の理解[#「歴史の理解」に傍点]の哲学であるが、今日の日本に於けるブルジョア哲学的常識は、まずこうした広い意味に於ける歴史哲学乃至理解哲学と離れることが出来ないのである。歴史理論自身は云うまでもなく経済学・文芸理論・其の他に渡って広く常識的にこの哲学が行なわれている。特にかつてマルクス主義を「哲学的に」理解しようとして日本の哲学青年達は、歴史理論乃至社会科学理論にこの哲学の応用を試みて、彼等の哲学的趣味を満足させようとした。時には彼等はこの哲学を進歩的であるとか自由主義的であるとかさえ考える。
 こうした生の哲学の特殊なものとして、その歴史主義の方は忘れて理解即ち解釈だけに注目する一つの系統がある。之はドイツのハイデッガーの解釈学的現象学に集中しているのであって、そこから出て来た今日の流行ブルジョア哲学が所謂人間学[#「人間学」に傍点]なのである。この人間学がどれ程各方面に於て調法がられたかは、夫が殆んど一切の社会理論・歴史理論・倫理学・文芸理論・宗教哲学・其の他に応用されていることを注意すれば判る。――私はこうした生の哲学に対して、
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