こまで行かなくても、キリスト教の神学に於てのように、哲学と宗教とはごく密接な近親関係に立っているものと考えられる。そして多くの場合、この種の考え方には、宗教が科学と相容れない又は少なくとも全く場面を異にしたものであって、科学はごく実用的な知識に過ぎないが、宗教は之に反して精神的信仰だという仮定が置かれている。そして哲学の知識は知識であっても科学の知識などとは違って宗教的信仰と非常に近い精神的な知識だ、と仮定されているのである。尤も時によっては、科学と宗教とは一定の条件で妥協出来ると考えられている立場もあるが、それならば、益々そういう宗教上の真理は学問的な哲学の真理と相許すものだということになる。
だが、宗教と哲学とのこの同志説は、すでに哲学と宗教との夫々に就いての、或る特別な注文を仮定しているのである。その仮定の一つは、普通の「哲学概論」などによく見受けられる処で、文化を、科学・芸術・道徳・宗教及び哲学に分けるか、又は文化の価値を真・善・美・聖に分ける処の、宗教独自の領域、而も人類の存在と共に永久不変な聖域を想定する宗教の所謂アプリオリ(先験)主義である。宗教は人間本来の要求(神とか無限とかへの)に基く、という非常に普及している俗説が之である。もう一つは、哲学というものが何か聖人めいたりする観念上の思索や煩悶や達観に帰着するとする卑俗な見解である。この後の方の見解は哲学を例の思想の科学だと云ったあの科学的[#「科学的」に傍点]な性質をば哲学に就いて軽んじるものであって、つまり哲学とただの世界観的常識との区別を抹消して了うものだから、今は一顧の価値も有たない。[#底本では「。」が脱落]問題になるのは、哲学と宗教とが、夫々独自の而もお互いに仲のよい、二つのアプリオリ(先験的な立場)に立つものだという領土協定説である。哲学は学問的な[#「学問的な」に傍点]世界観だ、之に対して宗教はもっと深い又はもっと高い又はもっと切実な信仰に基く[#「信仰に基く」に傍点]世界観だ、というのである。
併し之は明らかに事実に反する領土協定説に過ぎない。広く観念論[#「観念論」に傍点]と呼ばれているものの多くは確かに宗教に対して協定を取り結ぶことは出来るが(自分では却って観念論を否定するかのように云っている処の観念論も例外ではない)、観念論に対立する唯物論[#「唯物論」に傍点]は寧ろ宗教の
前へ
次へ
全226ページ中215ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング