分析に代る[#「代る」に傍点]信念や信仰だ。処が日本の場合、日本民族生活と日本の政治形態との特有に頑固な結合が、この哲学の内容の第一テーゼとなるのである。この哲学は或る古神道的なものから出来ている。いやそれ以外に本質上哲学的なものは含まれていない。
ただそれが外来の哲学用語で書かれたり、国粋主義的用語や人工的な速製用語法で書かれたりする、という区別があるだけだ。之は日本の今日最も通俗で卑俗な理想であり、哲学であり、又日本に於て支配権を付与したがられている支配的哲学だが、夫が一種の神道的神学のものであることは、知れ過ぎる程知られていることだ。今、ただ注意すべき点は、この哲学が他ならぬ日本ファシズム哲学だということであって、その非合理主義が、この日本ファシズム哲学なるブルジョア哲学(その意味はすでに述べた)とその宗教振りとを、結びつけているということだ。
かかる形のブルジョア観念論の宗教化を、模倣するものが所謂新興(インチキ)宗教の多数であることは、もう少し注目されてもいい点ではないかと思う(大本教・ひとのみち・など)。あそこに古神道的神学が働いていたとすれば、ここでは夫の代りに各派神道的神学精神が働いているのである。尤もこうなると、もはや世間では哲学とは呼ばない。ブルジョア哲学が宗教化したともいえなくなる。だが生長の家で色々と手当り次第にヨーロッパ哲学を利用しているのを見れば、この種の擬神道インチキ宗教も亦、一個の哲学と見なされていいかも知れない。そしてこの種の思想体系が、如是閑氏の表現をかりると、ナポレオン的世界征服の代りに、大本教的世界征服を企てているという意味に於て、擬似ファッショ思想体系であることを、注目すべきだ。この擬似ファッショ哲学も亦、日本のブルジョア哲学宗教化の一つの場合だろう。
だが、日本のアカデミー哲学は、主として外国特にドイツから受け取ったものだ。最近のドイツ哲学が一種の不安の哲学として、観念上の世界秩序の問題から脱落し、且つ一種の不合理主義に道を求めて行きつつあることは、日本にも殆んどそのまま反響を呼び起している。それから比較的翻訳的な反響を持たない独自性を有ったブルジョア・アカデミー哲学に於ても、キリスト教や仏教のカテゴリーを特別に有効な合言葉とするという傾きは、盛大である(アガペや菩薩道など)。このブルジョア哲学の宗教臭化は明らかにフ
前へ
次へ
全226ページ中212ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング