壊・その否定的な動揺・と考えられるというまでであって、こういう目的意識から名づける代りに人間社会のエロス的(生物的文化的)契機を恬淡にエロティシズムと呼ぶならば、エロティシズムこそ風俗の基本的要素の意味を有つと云うことが出来るだろう。そうすれば、この風俗感覚をその宿命とし又その特権とする映画が、不断にエロティシズムを追求する側面を失わないのは、甚だ当然なのであって、この現象そのものは映画の芸術的低級さを意味するものでも何でもない。ただ映画のこの感覚主義が不純である時、と云うのは感覚を何等かの感性的な行動への潜在的な手段と見たり、感性的な連想の手段と見たりする時、その時に限って、映画のエロティシズムは煽情主義に堕するのである。
 で映画の感覚主義(映画特有の芸術的地盤はここにある)は、エロティシズムからの脱却でも何でもなく、却って正にエロティシズムの純化にこそなければなるまい。映画は観衆に、観衆の意識(生活意識・社会意識・等々)とスクリーンに現われた風俗との対質を要求する。この風俗は何人も解し得る処の、人類に普遍な性関係につながっているのであるから、云わばここに映画の内容自身がもつ大衆性の一つの根拠があると云っていいだろう(人類の類意識は性的関係から発生する――Menschengeschlecht――Geschlecht)。性道徳への省察を、大衆はスクリーンを通じて行なっているのだ。
 誤解を防ぐために断わっておくが、私はエロティシズムや性道徳への省察だけが、映画の主な芸術的内容だなどと云うのではない。要は風俗が映画の芸術価値を成立させる根本条件だというのであり、その一つの必然的な契機としてエロティシズムが本質的なものとなるというのである。そしてこの風俗と雖も映画の芸術的価値を終局的に決定するものだなどと云うのではない。ただ映画の芸術価値はこの風俗という物的で感覚的で、肉体的で社会的な、具象性の地盤の上で初めて完了することが出来るというのであり、且又この風俗感覚そのものにすでに、丁度自然現象やニュースの実写がそうだったように、独自の芸術的価値が約束されているのだというのである。つまり映画では、風俗そのものが、その感覚的な表現にも拘らず、その故にこそ却ってモラルを有つのだ、というのである。
 映画による風俗感覚が大衆の道徳意識を芸術的に刺戟するということは、色々の証拠を
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