三[#「三」はゴシック体]
類似宗教台頭の原因の一つを、現代思想の混迷に帰せようとする内務・文部案もまた、間違ってはいない。だが一体今日の思想は混迷しているのだろうか。マルクス主義乃至唯物論の側に立つ思想も、勿論今は絶対的安定を得ているなどということは出来ないが、しかし結局においてハッキリとした見透しを持っているわけで、混迷などとは似ても似つかぬ事態の下にあることを、思い出さねばならぬ。混迷している思想というのは、ある特別な思想に限るのである。
思想の混迷とかいうものはどういう時に発生するか。既成思想の崩壊に当って、これに代るべき新しい生きた思想が、与えられない時だ。あるいは与えられたように思われても、その与えられたのが輪郭[#「輪郭」は底本では「輸郭」と誤記]の潔くない、その意味で不潔な、尤もそうなまた尤もらしからぬ、不信用な観念である時である。そして特に、当然行くべき思想段階に行きつこうとして、しかもそれを強力的に妨げられる時、思想は最もいちじるしく混迷し腐敗するものなのだ。
だから思想の混迷を矯正するといって、思想を強制的に統制[#「統制」に傍点]しようとし始めたりすれば、それこそかえって思想をくさらせ[#「くさらせ」に傍点]て混迷に導くものなのである。内務省や文部省が思想の混迷を類似宗教発生の一原因と見なす場合、思想の進歩と代謝とを圧制することによってこれを混迷させたものも自分達なら、また次にこれを強権的に統制して重ねて混迷へ導くものも、自分達自身であることということを、あるいは自分でも知らないだろう。類似宗教征伐に最も熱心であるものが、あに計らんや類似宗教の温床であるということ、こういう一種の「インチキ」は政治事情の上ではいつもあることだ。暴動を鎮圧したと見せかけるのが暴徒の一味だったり何かするものである。
最後に、宗教復興・精神作興・の声を利用して類似宗教が進出したという関係当局の見解は、最も天晴れといわねばならぬ。全くそうなのである。だから私は、当局の思想対策と類似宗教簇出とは、社会的に同じ本質の二つの現象だと云っているのである。特に注意されてしかるべき点は、類似宗教中、最もインチキな部類にぞくすると見なされて、社会で兎や角話題になるものの大部分が、何等かの神道に関係の深いものだということだ。大本教・ひとのみち(扶桑教にぞくす)を初めと
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