って、子《し》の所謂遠くより来る友や、ヘラルド(之は間諜でもある)、話し手、物語作家、其の他はこの本能の要求に対応して発生した。こういうジャーナリズムの文学的本質、つまりジャーナリズムと文学との本質的連関は、多くの文学批評家が教科書的にさえ解説している既知の知識だ。こういう「見聞き」、「見聞」、「見物」の要求を充たす何よりのものが、スクリーンなのだ。写し方さえ、誠実で着眼点が芸術的に真実ならば、ニュースや写実そのものが、そのままで人を考えさせるに充分だろう。吾々はここに世界を見聞きすることの怡びを有つのだ。この怡びは非常に哲学的なものだ。思想もここから養われるのではないか。――映画の実写的な無限な能力を、単に一通りの意味の実用性にばかり限定して考えることは誤りである。
 モンタージュや又トリックのことを考えて見ても、映画のこの実写的本質は却って裏打ちされるに他ならない。モンタージュが可能なのは云うまでもなく実写的な(と云うのはセザンヌの絵のようではなくてデューラーの絵のように空間一面に実物がつまっている)フィルムを材料としてなのであるし、トリックが効果を有つのは現実的リアリティーとの対比を観衆が行なうからだ。実写的フィルムのない処にトリックというものは意味があろうとは思われぬ。一体吾々の日常の見聞なるものが多少ともモンタージュ的な手法のもので、旅行したり見物したりすることさえが一種のモンタージュに喩えていいかも知れない。
 映画の芸術的価値には無論劇的又文学的なモメントがあることを私は忘れない。併しそういう価値が実現するためにも、まず第一に現実的リアリティーの再生という写実性が大切なのであり、この写実性そのもの[#「そのもの」に傍点]がすでに、映画に特有な芸術的価値を与えるというのである。自然的社会的な出来事に就いての実写や報道はしばらく別にしても、日常の自然現象についての実写的効果だけから云っても他の芸術様式ではただの匍匐的リアリズムやトリビアリズムやミミクリーに終るべきものが、映画では嶄然たる芸術的鋒鋩を現わすのだ。自然現象に関して云えば、スクリーンは世界の物性の好さ[#「物性の好さ」に傍点]を、物質の運動の怡しさを、人間に教える。こんなものは多くは吾々が日常見ているものだが、その好さはスクリーンに現われて初めて気がつく。すでに写真の好ましさはここにあり、グラフ
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