しいといいながら、本を読んだり物を書いたりしていないと落ちつかないらしい。サラリーマンは退屈だ退屈だといいながら、仲々愉快な暇つぶしをやっているようだ。自分の行動形式が結局一等好ましいものだということを、義理にも正直にいい触らさなければならない者は、恐らく、信仰家と呼ばれる宗教専門家だけだろうと思う。――ひとり宗教的信仰に限らず、政治上の奔命もビジネスも読書や著述も、一種の耽溺三まい[#「まい」に傍点]境を用意している意味で、どれも薬品的な阿片的な効果を有っているのである。
スポーツも亦この意味で、他の行動形式と同様に、一つの阿片であって、特にそれが生理的な効果にもっともよく結びついているだけに、宗教的自己高揚よりも、もっと阿片的だといっても好いかも知れない。だが宗教が民衆の或いは寧ろ無知な市民や農民の、阿片だとすれば、スポーツは中層市民の、或いは特にインテリ市民の阿片なのである。
心理的興奮や生理的興奮が、瞬間、楽天的な世界観を伴うことは、たとえそれが不健全な現象である場合でも、それだけでは少しも非難に値いしない。自分自身でスポーツをやって見れば、少なくともそれがどんなに愉快な、良い、健康感を覚えさせるものであるかということは、すぐ判る。
だが、この甚だ結構なスポーツが、阿片的効果を現わすのは、第一に、それが耽溺という形で、例えば社会的関心とか実際生活の計画性とかから全く隔絶して、丁度四畳半にシケ込んだと全く同じに、逃避境を提供するようになった場合である。それは「文学中毒」や「哲学中毒」と少しも変らないので、昔の文学青年や哲学青年は煩悶や厭世で自殺したが、今日のスポーツマン(スポーツ青年)が自殺しないのは、偶々阿片がスポーツの場合では、心理よりも生理の方に先に効くので、それだけスポーツは「健康」で「健全」であるからに過ぎない。
これはまだ良いのだが、このアヘン的効能が社会的に利用されると、色々な結果をもたらして来る。かつてはスポーツを体育[#「体育」に傍点]と称して奨励したが、そういう「体操」は段々人気がなくなって、剣道柔道というようなもっと「精神的」な武士らしいものが公認となり、やがて一寸下等になっては相撲が台頭し、それからいわゆるスポーツとして野球が絶対王権の玉座を占めるに至った。しかしもう野球となっては、ほとんど日本魂がなくなっているから、それに対抗
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