無産大衆だと云い切ることは、勿論意味がない。だが現代青年と無産大衆とを離して理解することは、事実難いのだ。
 例えば現代青年の一つの代表的な種族である学生を取って見よう。学生はインテリゲンチャなどと混同され易いが、無論それは乱暴なことだ。学生という範疇は一つの自分乃至職業を云い表わすものだ(図書館へ行けばカードの職業欄には学生と書くのだ)。だから本格的な学生は(夜学生や職業学校生は別だ)たとい芸人学校や職人学校(音楽学校や高等工芸学校など)でも、学生業以外の職業を許されていない。処が誰もインテリなる範疇をそういう身分だとも職業だとも考えていないだろう。それ程学生は一つの社会自身を意味するのだが、それにも拘らず、之は決して充分な意味で階級ではない。処が無産大衆なるものは、或る階級性を云い表わすことによって略々一つの階級を云い表わす処の言葉である。――でこうして学生と無産大衆とは、範疇的に別なシステムにぞくしていると云わねばならぬが、それにも拘らず、二つは何か直接な関係があると見られているのを、見落してはならない。
 学生の学生運動は、無産大衆の労働運動とは、範疇的に別なシステムにぞくする運動だが、併し事実、二つはほぼ同じ気脈に於て行なわれる。事は単に学生が大体インテリであって知能が自由であるために、労働運動に理解があるとか同情が持てるとかいうだけでは説明されないことで、学生自身が自分の運動を労働運動になぞらえ[#「なぞらえ」に傍点]ているという点を忘れてはなるまい。彼等この現代青年の一種族は、無産大衆と何か同様な社会的状態に置かれているのである。大学生其の他は決してそう札つきの無産者の家庭の者ではない。世が世なら官吏にでも政治家にでもなれる処だ。それが自分を無産大衆みたいになぞらえ[#「なぞらえ」に傍点]なければならぬ。――ここに現代学生の、即ち一般には現代青年の、特別な固有な意義が見て取れるだろう。
 彼等現代学生のこういう自己意識が併し、決して感傷や無知や思い間違いから来ていないことは、社会が彼等を実際にどう待遇しているかを見れば判る。警察は彼等を労働者と殆んど全く同様に、労働者になぞらえて、待遇する。彼らはこの支配社会からそういう仕方で抑圧されているのである。カフェー・ダンスホール・其の他の禁圧も、この学生をねらって試みられる(学校は学校で方々で昭和ザンギリ令を
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