だけで社会的には却って鈍感であるか(萩原朔太郎氏の如き)、それでなければ徒に言葉に熱中して了って、本当に言葉を使いこなしていない。言葉を思想の範疇として使いこなす筈の作家(それは彼等の評論や時評に於て端的に現われる筈の現象だが)ほど、言葉即ち観念を出鱈目に、常識的に、便宜的に、浅墓に、而も朋党的に使っているものは少ない。ブルジョア作家は特にそうだ。彼等は一定の言葉=観念=カテゴリーが、文壇という文化的一地方で使われていると同時に、哲学でどう用いられ、社会的にはどういう連関に於て役立っているか、を真面目には考えてみない。こうして、作家の実際性と客観性とは、世間の日向に出ると露のように消えて了うのである。日本のブルジョア作家が、就中社会現象の文学的評論乃至時評に於て無能であることは、著しい。こうした文学的方言[#「文学的方言」に傍点]は教養の狭さと低さとの徴しであり、文学的・詩的・透察の凡庸さと、関心と知識との貧弱を意味するが、それというのも、作家の職業的専門家としてのマイナスな宿命から来るのは云うまでもない。日本の作家の思想性の貧困と云われることにも、色々吟味した上でないとハッキリしない点はあると思うが、少なくともこうしたことが、思想の欠落ということの一つの内容なのである。
作家の教養の問題は、作家という職業的専門家にとっての鞭である。この鞭を欠く時、作家が専門家的な偏狭と職業的な卑しさに堕することを防ぐものは、もはや存在しない。ただの自意識や魂の逞ましさや、アンチ・ジャーナリズムなどでは追いつかないのである。作家には博大深長な「常識」と新鮮鋭利な社会的認識[#「認識」に傍点]とが必要なのだ。社会は、本当に文学を生活の必需品としている処の、生活のある大衆は、実はひそかにそれを作家に要求しているのだ。大衆は作家から気焔やゴシップではなく、真実の思想を聞きたいのだ。で教養は特に作家の社会的義務だ。いやそれは職業的な義務なのだ。但し、女形的な「たしなみ」というような歪められた躾けではなくて、最も普遍性をもった堂々たる職業的訓練なのだ。――処で作家は、之を妨げるものを衷心憎むことを知らねばなるまい。作家の真の教養を阻み、人間の真実の思想を圧えつけるものを。実際の要点は結局ここにある。この要点に就いて真実を欠いているものには、教養も思想も何もかも本当は無駄な話しなのだ。
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