即ち生活資料は他の手段で獲得する文学者、もいないではないが、大体に於てそういう種類の文学者はエキスパートとしての特色を備えていることが少なく、従ってディレッタントに過ぎない場合の方が多い。専門家というものもその職業的訓練から離れて理解されるべきものではあるまい。
なる程職業的訓練は同時に職業的変質を意味する場合が極めて多い。今日のブルジョア社会に於ける職業的訓練なるものは、生活のノルマルな発育を歪曲することによってしか得られないだろう。特に文学者や文士の職業界は可なりにギルド的組織の形態が残っていて、ギルド的な成長をして来ているのだから、この職業人は甚だ屡々、職人気質を持っているのである。職業的眼界の狭さや、新しい世界への接触に対する反感、技術的自負心と外界に対する無知とから来る独りよがり、必要以上の友誼感と反目、甚だ世俗的な仁義、其の他数え立てれば数知れぬものがあろう。だがそれは否定的な反面ばかりに注目するからであって、職業の積極的な本来の面目は、とに角それによって実際に生活が営まれるということだ。資本制社会では資本主義的な意味に於ける職業しかなく、而もそういう資本主義的な秩序に於ける職業に依るのでなければ、社会の生産機構に直接結びついた実際生活[#「実際生活」に傍点]が行なわれないのであり、つまり資本制秩序にぞくする職業に基づく生活以外に真の生活は大衆的にはあり得ないのだ(職業的変革家などの場合は別として)。――この職業というものの持っている生活上のリアリティーこそ、専門変革の社会的リアリティーを産むもので、この際、専門家であるか専門家でないかは、エキスパートであるかディレッタントであるか、ということに他ならないのである。玄人とは、一定職業の職業人であることによって、一定の専門家であるものを指すのだ。
で専門家というのは、その専門領域に於て他の人間よりも秀でているもので、生活の根幹がその専門領域による職業を通じて発育するというメカニズムを持った場合の人間のことであり、その限り極めて積極的なものを意味するのだが、処が他方に於て、この同じ言葉が色々の消極的なニュアンスの下に慣用されるということも、見落してはならない。例えば未熟なアカデミシャンの三四の人間に接して見るがよい。学術・技術上のアカデミシャンでもいいし、文芸や芸術のアカデミシャンでもよい。特に露骨なのは
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