レッタント的教養と同じく、要するに階級的固定観念や伝統的な好みのマンネリズムに帰する他ないという事は、少し考えて見ればすぐ判る。なる程大学に於けるビルドゥングは、「文化人」に必要なアカデミックな或る常識[#「常識」に傍点]を与える。少なくとも専門領域に就いての学界水準に相応する常識を与える。この点が独学者やアマチュアを専門学者から区別するのでもある。だがこういうアカデミックな教養は、アカデミー自身の退廃鈍化を覆すだけの力は少しも持たない。却って退廃鈍化を進行させるものこそその際のビルドゥングだということにもなる。つまり今日ではもはや、アカデミックな専門領域の停滞を打破する結果にならざるを得ないような総合的な見地[#「総合的な見地」に傍点]は、このビルドゥングとは別なものになって了っているのだ。そうすればこのアカデミックな教養は専門的職業人の徒弟的な躾け[#「躾け」に傍点]のようなものに過ぎなくなる。すると之は人格の完成とか自己の造り上げとかいうものでは更々なくなるわけだ。つまり一つの退屈な階級的趣味か感覚かの母体のようなものにすぎぬことになるのである。――こういう教養は、より新しいより高い教養の社会的発達に対して、恐らく、単にギルド的な排他意識しか持つことが出来まい。かくて大学生は常に教養があり、民衆は常に無教養だ、というようなことにならざるを得ないだろう。
 だが私は今日、新しい型の教養を待ち受ける処は、民衆の内以外にはないと思っている。教養とは何かはまだ判らないのだが、とに角従来の教養の本質的な変更蝉脱なしには、吾々は真の教養を得ることは出来ないだろう。今日の教養やビルドゥングは吾々に必要な新しい意味での教養を与えることが出来ない。事実今日のブルジョア教養は、教養としては社会的信用を失いつつあるのであり、又従来の意味での教養の程度さえが、どうやら一般には低下して来たようだ。教養の崩壊が教養観念の入れ代えを要望している。

 では新しい意味での教養は何かということになるが、それより先にまず教養は一般的に云ってどう考えておくべきであるか。処でさし当り便宜な方法は、教養の欠乏か無教養の特色を指摘して見ることだろう。どういう徴候によって教養の欠乏又は無教養を吾々は決定し得るか、又してもいるか。一二の徴候を挙げて見ると、第一に関心・興味の範囲の狭小ということである。関心や
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