いうことである。風俗とは、道徳的な本質のものとして用いられるべき理論的用語だ、という当然至極のことに過ぎないのだが、今それが理論的に説明され得る、ということの説明みたいなものをやって見たわけである。
こういう回りくどい間接な接近の仕方を選んだというのも、結局、風俗という観念にもう少し重大な理論的意義を認めよということが専ら云いたかったからであって、さっき第一に風俗が道徳にぞくする所以を強調したが今度は第二に、風俗が思想[#「思想」に傍点]的な本質を持ったものだということを強調したい。之も亦、判り切った現象に就いての観察に基くわけで、服装や態度一つにもその人間の思想が現われているし、国民の風俗習慣は俗に国民性[#「国民性」に傍点]と呼ばれて、何かその国民の国民思想であるように云われているのである。――だが、例えば風俗は思想が表現となって現われたものだとか、風俗は思想の一つの実現だとか、というような安易な理解の仕方はやや危険である。なる程思想は風俗に於て表現される、風俗は思想の表現である、之は大事な認識であり又事実に就いてのよい理解である。けれども表現という言葉は解釈上の又は解釈学上の用語であって、決して無条件に説明上の科学的用語でない。だから風俗が思想の表現だと云っても、思想が本当に風俗という形をとって現われて来たことではないのだ。吾々は言葉の綾にだまされてはならず、言葉の洒落にひっかかってはならぬ。思想は一つの[#底本では「思想一つの」となっている]観念物だ、併し風俗は目に見える風物だ。思想という観念物が風俗という風景となって現われるというような神仙譚ではなくて、単に風俗が思想を云い表わしている、一種の思想を意味[#「意味」に傍点]している、という事実だけが本当なのだ。
思想乃至意識に就いても説明しなければならぬ要点があるのだが夫は省かねばならぬ(前出『道徳論』参照)。併し少なくとも思想という言葉も亦、一方今云った観念物を指示すると共に、他方、この観念物を云い表わしている一切の物的風物――風俗などがその一つだった――のもつ「意味」をも指示している。その点だけは注目すべきだ。だから本当の「思想」という観念はもはや単なる観念物をいうのではなくて、そういう観念物をも又更にこの観念物を云い表わすような物的風物が有つ「意味」をも把握させる処の、反映・認識の機構上の一つの個
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