任務ではなくて、今日では正に思想検閲の中心をなすものだが、今は夫が、宮廷人の色事として、風紀問題に結び付いている点が、この場合の要点でなければならぬ。
前の有閑マダムの不行跡は、単に女の不品行として社会の注意を惹いたのではなく、全く上流有産者の婦人達の行為だったがために注目に値いしたのであったが、恐らく源氏物語のこの戯曲も、一千年の距離を貫いて、上流人士の不品行を連想させるというのが、当局の心配だったのだろう。玄人の批評家達からは不幸にしてあまり好評を博さないらしかったこの戯曲も、その劇的効果の絶大なる所以を、検閲当局によって保証されたわけである。
ただでさえ資本家の「横暴」がやかましい世の中である。資本家や政治家自身に手入れは出来ない迄も、不労所得の代表者と考えられている名流文士や上流婦人の、賭博や不行跡には手を入れる。当局は決して資本家らしいものに向かっても寛大なのではないということが、世間に知れ渡った。併しこれ以上薬が利き過ぎるのは考えものだろう。たとえ千数百年昔の出来事にせよ、雲の上の男女の不行跡を却って暴露して天下に公示することは、もはや文化・思想・警察と風紀・風俗・警察との、検察方針であってはならないだろう。そう吾々は想像するのである。
だが問題は、こういう禁止理由が一般的に正しいか正しくないかではない。無論風紀を乱す芝居は禁止されるべきだろうし、特に雲の上のそうした事柄を描き出す芝居は安寧を害することにさえなるからいけないだろう。それは丁度正義は正しく、真理は本当だ、というようなものかも知れない。問題はこの芝居が実際に風俗を乱し安寧を害するかどうかの判定[#「判定」に傍点]にあるのである。
併し判定になると実は之程出鱈目なものはない。世の中の観衆の観劇眼がどの程度に進んでいるかは、検閲当局自身の観劇眼の程度によって判定を異にするし、又この劇自身が風俗警察や文化警察の対象になるか否かも亦、検閲当局自身の好色水準や社会意識水準によるのである。文化警察と風紀警察とが実際上、如何に警察権の主観化であり、それが又如何に警察権の私的化に基づくかが、検閲標準のこの薄弱さの中に、まざまざと露出しているのである。
警察権が私的化し従って又主観化することは、処で、本来の警察機能をおき去りにすることであり、警察権の矛盾[#「警察権の矛盾」に傍点]を発展させることだ
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