でよいとして、一体風俗がぞくすると考えられたこの道徳なるものは何であるか。最も通俗的な規定としては、善し悪しを判定する標準のことか、又は善し悪しを決める場面のことだろう。これが通俗常識による道徳の観念であって、そこではつまり、出来るだけ早く簡単に善いか悪いかを決めることが目的になっている。処が或る事柄の善い悪いを決めることと、その事柄に就いての有効な(然り人生にとって有効な)批判的・科学的検討とは、殆んど全く別のことなのである。事柄の理論的研究と、その事柄の善悪の宣告とはまるで別だ。と云っても私は何も、理論や科学が超利害的であるとか又公平無私(?)で超党派的・超階級的なものだ、などというようなブルジョア科学論の一節を暗誦する心算で云っているのではない。例えば日本に特有な形態の人身売買制度(娘の身売りなど)をどんなに悪いことで不道徳だと宣告しても、それで少しもこの現実の風俗は善くはならないのだ。問題は善いか悪いかではなくして、如何にしてこの欠陥を救済するかというための理論的な研究なのだ。処が道徳は往々にして、正にこうした科学的検討そのものを省略するための唯一の手段として出馬するものだ。道徳的ということは反科学的・反理論的・没批判的ということだ。日本ではこの頃、こうした意味での道徳的社会観や政治観や文化観や、経済観さえが、盛んである。
こんな道徳の観念はそれ自身、打倒される必要のあるもの以外の何物でもない。一定のあれこれの道徳律や道徳感情の打倒というより、寧ろ道徳のかかる観念自身[#「かかる観念自身」に傍点]が打倒されねばならぬのだ。マルクス主義的社会科学乃至文化理論は、之を徹底的に打倒した。マルクス主義にとっては、あれこれのブルジョア道徳律やブルジョア道徳観ばかりでなく、この種の道徳なるものそのものが元来無用有害となり無意味となる。――で、もし風俗の観念も、単にこうした意味での道徳の観念に接着するだけなら、夫は理論的に無用でナンセンスな困ったカテゴリーに終るだろう。
だが、道徳に就いての文学的観念[#「文学的観念」に傍点]ともいうべきものこそ、道徳現象に就いての論理的に(又広義に於て認識論的と云ってもよいが)有効な唯一のカテゴリーだろうと私は思う。普通の所謂「道徳」という観念はこれの前には解消して了う筈であるし、又「道徳」という観念によって指し示された所謂道徳なる
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