その際主張の弾みとなるものは、単に文学的な表象(科学的なカテゴリーとは独立な亦は之に対立さえした)のイメージ相互の連絡であるか、それとも常識的なレディメードな観念(之ほど非文学的なものはない)の常識的な連想であるか、ひどい時になると常識用語の習慣的な継起(之ほど非詩的な連想はあるまい)であるかだ。之はもうスタイルではなくて、美文の類だ。スタイルは思考が要求する文章の姿態のことだから。――私はこうしたカラクリを前から「文学主義」と呼ぶことにしている。
この文学主義に立つ主張型が、情熱的に見えるということは、尤もなことだが、地を焼くことが出来ぬ情熱が天を焦すことなど出来る筈がないのだ。情熱が主張の塗料となる時、もはや情熱ではなくて軽卒でしかない。――真の情熱は結局決意と同じに、云わば分析の結論[#「分析の結論」に傍点]の上で初めて発情する。「分析の結論」は決してまだ情熱ではないが、情熱を産まないような分析の結論は、「結論」のない分析であり、ペダントリーや弁解やに於て見られるような匍匐的リアリズムに過ぎないのだ。事実従来の論文には、そういう「分析」が少なくなかったのである。
極端な場合を云えば、分析に基かない情熱的主張は、客観的に見てファッショ・デマゴギーの温床でさえあるのだ。分析=論証のない情熱は、そういう一般的情熱、一般的な主張衝動は、創造的な想像力と妄想とを区別することを知らない。無条件な主張衝動が信頼出来そうに思われている場合も、実はその根柢に分析の結論[#「分析の結論」に傍点]が想定されていることが約束されている場合だからであって、如何に陶酔してもこの約束だけは忘れてはならぬ。
私は学術論文の類を分析型であるべきものと考える。之に反して評論雑誌に於ける所謂「論文」を、即ち主張型になることを今日要求されている処の当のものを、分析型に対して評論型[#「評論型」に傍点]と呼びたいと思う。評論型のスタイルとは、分析型の分析に基いて初めて主張型に登りつめたスタイルだ。之が評論[#「評論」に傍点]というもの一般の落ちつくべきスタイルであり、そして所謂総合雑誌を代表するスタイルとなるべきだろうと思う。之は理論であることによってある処の思想のスタイルである。総合雑誌・評論雑誌を、私はこういう理由から正当には思想雑誌[#「思想雑誌」に傍点]と呼ぶことが出来ると思うものだ。
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