ある。杉村広蔵氏はこの特色を「不連続性の思想様式」と名づけた。与えられた国民性の何かの特色をハッキリさせることは勿論必要な仕事だが、併し元来感覚や教養や思想はただの「事実」とは別なものだ。それは矯正され、淘汰されねばならぬ一つの「課題」なのだ。日本の特色をどんなに明らかにしても、それだけで日本人は決して偉くはならぬ。だが今日の日本論者は必ずしもそうは考えていないらしい。感覚や思想には色々のタイプがあろう、だが、それを貫くロジックは一義的に決定されねばならぬ唯一性を有つのだ。
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 8 評論に於ける分析型と主張型

 或る時或る会合で和辻哲郎教授に会った。話しが偶々有名な某大学総長の性格に及ぶと、教授が云うには、あの人は自分では何物も主張しない人で、それがあの人の特色だと説明した。そして「あなた方には一寸真似の出来ないことですね」とつけ加えた。あなた方というのは多分三木清氏や私などのことであったと思う。
 これは仲々面白い言葉だと私は思った。なる程学者という種類の人達は、あまり主張をしようと欲しない。早急な結論を避け、事を慎重に判断するという習慣が、恐らく職業的になっているためだろう。その習慣がやがて何かを主張しようとする意欲を失わせるものでもあるらしい。職業的に不徹底な専門家には往々却って専門外の事物に就いて極めて非科学的な主張をしたがる人も見かけなくはないが、夫はこの職業的習慣が偶々首尾一貫していないまでで、充分に「良心的」な学者は、何ごとに就いても主張という形のことは好まない、という風潮のあることは否定出来ぬようだ。之は一概には貶せないが又一概に感心したり賞めたりすべき性質のものではないと思うが、それは後にしよう。
 併し和辻教授が述べた処は、例の総長の学者としての性格というよりも寧ろその実際家としての手腕のことだったのである。考えて見ると実際家も亦、学者とは別な理由で、主張するという態度をあまり好まない。所謂実際家は本当を云えばいきなり実行するか、もし実行出来なければ口にも出さぬという種類の人間だと考えられて来ているのであって、とに角主張ということにあまり価値を置かない人種のことである。少なくとも東洋的乃至日本的な観念によると、実際家とはそういう不言実行の人を云うらしい。ヨーロッパ的実際家にはこの点必ずしもあて嵌らないので、ファシズムの英雄政治家達に
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