の日本の思想界は、正に評論の危機に臨んでいると云わねばなるまい。
 今しばらく巻頭論文系の文章を離れて、文章に評論らしい資格を与えそうな、何等かの原則を探ねて見ると、ヒューマニズムというものが眼の前に横たわっている。之は文壇のトピックでもあるようだが、それというのも実は論壇評論壇の根本テーマだからだ。その証拠に、矢内原氏の評論の立脚点であるプロテスタンティズム(?)もヒューマニズム主義者のヒューマニズムも、共通のある機能を持っているだろう。と云うのは、このプロテスタンティズム式「精神的自由」も、ヒューマニズム式「ヒューマニティー」も、どれも、唯物論に代位して思想の論理的システムの中核となろうとしている世界観の原則の心算だからだ。
 ヒューマニティーの強調をすぐ様ヒューマニズムというシステムの主張にすりかえることは、論理的に大きなギャップがあることだ。この点をこの際多くの論者は見遁しがちだ。無論、合言葉をすぐ様思想のシステムの軸とすることは、自由だから自由主義、精神だから精神主義、理想だから理想主義、文学だから文学主義、と推論するのが可笑しいように、可笑しいことなのだ。私は「ヒューマニズムの現代的意義」の筆者(『文学界』一九三六年九月)森山啓、阿部知二、そして特に三木清の諸氏に、この間の消息に就いて、より以上の関心を期待したいと思う。ヒューマニズムというスローガン(?)は今は極めてピッタリしている、之を導き出すシステムは併し、ヒューマニズムでは困ることになる、という一つの消息をだ。岡邦雄氏がヒューマニズムに「限定」を要求したのがそういう意味からなら、よく判る。

   四[#「四」はゴシック体]

 思想[#「思想」に傍点]というものから便宜上或る意味に於て政治[#「政治」に傍点]を捨棄すれば、残るものは恐らく教養[#「教養」に傍点]というものになる。ヒューマニズムと自由主義(文化上の自由主義)もこの教養問題に関係があるのだ。作家に就いてもその教養が問題になっている。ここに最近の評論壇のトピックの一つの代表的な特色を見ることが出来る。
 桑木厳翼博士が「教養としての哲学」を説いているのも、学術と思想、科学と教養、とを区別しようという、評論[#「評論」に傍点]の意義の強調かと思う。処が教養とは何かと云われると、之は決してそう簡単には判らないものだ。少なくとも普通教養と考
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