者もない。新聞は雑誌よりも大衆的な普及性を有っているだけに、益々世間がうるさいのだ。処で政治思想を回避しながら、時代の論説を論じようとする程、困難な仕事はあるまい。
之が第一の困難だが、併し最近論壇時評に就いて指摘されがちな困難は不思議にも、必ずしもこの第一の困難ではない。もう少し安っぽい論拠から来るものである。何かと云えば、雑誌には色々の専門科学上の論文が載るのだから、之を一人で批評して了えるような人間はあり得ないだろう、だから論壇時評は成り立たぬ、という理由だ(専門の「科学」が評論[#「評論」に傍点]などされてはたまらぬというアカデミシャンの独りよがりにも通じている)。之は確かに完全な嘘ではない、実際そういうことが原因で、論壇時評は評論家があまり書きたがらぬものとなっている場合もあるようだ。筆者が書きたがらぬという理由も含めて、論壇時評をやめにした新聞もある位いだ。
だが実は之は可なり浅はかな推論なのである。一体「専門」の論文が評論雑誌にそうやたらに載るということが多分間違っているのだ。評論雑誌は元来学術雑誌ではないのである。又仮に大学の講義や学会雑誌の「アルバイト」のような「論文」などが載っていても、之をそういうものとして相手にはしないで、「評論」という正金に換算して評論するという見識さえ持てば、困難は大したものではないのである。その換算の権利は次に説明するが。
それよりも、困難の名に値いするのは、論壇という現象そのもののあやふやな性質にあることを注意したい。文芸時評は今迄の処要するに文壇時評であったが、この文芸時評=文壇時評と、論壇時評とを較べて見れば、それが判る。文芸時評ならば、文壇を中心として(所謂「局外」からでも矢張り同じだ)、書くことが出来る。そしてその時々の一連のトピックというものがある。処が論壇というものが、元来文壇のような意味ではどこにも存在していない。論壇人(?)という者も極めて少ないし、論説という一群が創作欄のように共通の特色を以てどこかにハッキリとして輪郭を持ちながら存立しているのでもない。而も論壇のトピックというのは、実は論壇のものではなくて単に社会に於ける生のトピックに過ぎぬ場合が多い。処でそういう現象を無理に一からげにして、便宜上論壇と呼んでいるのだから、之を相手にする論壇時評は、実際どこから手を付けてよいか、当惑せざるを得な
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