試験に対する問題と云えば、殆んど凡てここを中心にして提出されているわけなのである。この試験準備の浅ましさに面をそむけない者は恐らく一人もいないだろう。だがただ物の結果だけをどんなに矯めようとしても矯められるものではない。暫く前東京府の学務課では、小学校に於ける入学試験準備を厳禁して見たが、必然性あって産まれたこの入学試験準備が、ただ一通りの禁令で止む筈はない。潜行的な形で依然として行われたので、或る程度までの準備は大眼に見ようということになったと覚えている。今のままで入学試験準備を廃止するには、試験準備をしてもしなくても受験に大して影響を及ぼさないような試験の仕方を選ぶことだが、そうかと云って一頃試みられたくじ引きやインチキなメンタルテストは全くの不合理か或いは単に新しい種類の入試準備を強要するものに過ぎない。小学校側からの成績申告が殆んど無意味であることも亦云う迄もない。文部省が最近重ねて、入学考査に難問題を提出するのを禁止したのが、せめても合理的な対策だと思うが、之とても準備の量を制限するだけで却って質を重加する結果を招くに過ぎないかも知れない。
入学試験準備の軍縮会議が成立しないとなれば、残るのは府立とか市立とかいう「良さそうな」中等学校を新しく沢山造ることだろう。之なら問題は一応綺麗に解決するだろう。だがそれでもやがて又例の入学志願者偏在が始まるに相違ない。全受験者即ち全入学者の内に優良児と中以下の子供との間の大きな開きがある以上、或る学校には比較的優良な子供だけが入学するという可能性が、段々著しくなるというのが、ブルジョア自由社会の例の自然法則だったのである。
世間の人は入学試験準備の弊を試験施行者である中等学校教育家の罪に帰したり、或いは試験準備施行者である小学校教員の責任に帰したりする。だが色々の部分的現象に就いてはとに角とし原則としては夫は全く当っていないのだ。又之を母親や父親の見栄や流行かぶれに帰するのも何等の解決ではないのである。子供の父兄は一定の已むを得ない理由なしに、単に見栄をしたり流行を追ったりするのではない、それにはすでに述べたようなもっと実質的な根拠があったのだ。
だが次のような意味では、試験地獄の弊が家庭の親達の「責任」問題になるということを見逃してはならない。一体受験地獄という言葉は、受験者当人である子供達の気持ちから出た言葉だというよりも、寧ろ自分で子供に試験準備をさせている当の親達の意識から出た言葉なのである。年はも行かぬ頭の柔かい子供達を不自然な残酷な準備に駆り立てながら、そうすることが、不可避な必然性と、客観性とを有っているということを知っている親の目には、之は全く地獄の名に値いする。誰も地獄に墮ちたくて墮ちるものはないのだが、墮ちざるを得なくて墮ちるのが地獄の神学的な意味ではないか。で、受験者は当の子供なのだが、受験責任者[#「受験責任者」に傍点]は、受験の責任を最も直接に感じるものは、却って親達自身なのである。苦しめた者が自分であって見れば、それだけ成功させてやりたいというものではないか。
子供の方は場合によっては案外試験を気にしていないかも知れない。親達がある学校を受けろというから受けて見るので、受験責任者は親達の方だと思っている子供も少くないかも知れない。とに角一等心配しているのが親達だということは平凡なようだが見逃すことの出来ない一つの事実である。そうしてこの事実は年と共に著しくなって行く。この頃では中等学校の入学試験ばかりではなく、帝大の入学試験にまで、大きな子供(?)につきそってやって来る母親があるそうだが、之は何も帝大の入学試験が困難になって来たからではないので(以前は高等学校の入学試験でさえ、父兄がついて行くなどという珍風景は見られなかった)、それだけ受験責任者が、受験者自身から父兄乃至親達に、即ち又家庭そのものに移行したことを示すものであり、それが中等学校の入学試験から段々と高い処にまで及んで、遂に最後に大学の入学試験にまで現われたに過ぎない。こういう意味に於て、最近、試験地獄は、親達の責任に移行しつつあるのである。
従来は、男の子など、父親の社会的地位や職掌からは比較的独立に、子供は子供なりに新しい運命を開拓すべく入学を志望する、という意味が相当に活きていたのに、最近の社会ではそういう新しい未知の運命を開拓するなどということは例外な場合か空想としてしか許されなくなった。受験者たる子供の家庭の家庭的及び社会的条件が、自然と圧倒的に入学希望の内容を決めざるを得ないように、世の中がなって来たのである。重役の息子は重役に、平社員の子は平社員になるように稼業の程度がもう一遍世襲的(?)になって来るように見える、入学試験の責任者が親達へ移行したことの原因はここにあるのである。
社会の表面に現われた秩序が今日のように固定化されて来ると、今までは家庭が社会からの避難所であったと逆に又社会が家庭からの開放だったりしたのが、今度は家庭自身が社会秩序のただの一延長になり、或いは同じことだが、社会全般が云わば家庭主義社会というようなものになって来る。ここで親孝行と云ったような日本の身辺道徳が、社会道徳のイデオロギーにされたりするのだが、こういう社会では、社会へ向って伸びて行こうとする子供も、全く家庭化された善良な家族の一員として終始せざるを得ないように、段々なって来るのである。――そういう事情の一つの現われが家庭の親達を入学試験の受験責任者にするのであって、旦那様は外で働き、奥様は家庭の取り締り役に任じ、坊ちゃんやお嬢さんはママと女中とが育てると云ったような、中産以上の社会層に見られる所謂家庭らしい秩序の外面を保っている家庭では、子供の入学試験、試験地獄は、もはや子供のものではなくて、お産や病気と同じように、全く家庭の日常の主婦的な心配事と相場が決って来ている。
で、小市民層以上のパパやママが、試験地獄を気に病めば病む程、実は却ってそれだけ試験地獄は深刻化して行くことになるのだ。子供達がこの試験地獄から解放されるためには、彼等は入学試験から解放されるよりも先に、家庭から、家族の一員としての隷属から、解放されなければならぬ。夫はつまり日本の[#「日本の」に傍点]「家庭」というものが従来の魔術を失うことなのだ。(一九三五・二)
[#地から1字上げ](一九三五・三)
[#改段]
免職教授列伝
免職大学教授として有名なのは、東大の所謂三太郎と九大の佐々、向坂、石浜の三幅対だろう。この人達は今更私は述べようとは思わぬ。尤も今では前者の中、大森氏だけは後者の三幅対と一つになって四人兄弟となっているが、その代り、山田勝次郎氏が京大の農学部助教授を追われて、平野・山田(盛)の二人に加わったから、所謂左翼に三郎[#「三郎」に傍点]が揃ったわけだ。世間周知の通り、山田(勝)氏は東大の臘山政道教授の弟で、以前の「ソヴェート友の会」やその後の「日ソ文化協会」で主になって働いていた綺麗な山田夫人の夫君であるが、高等学校時代には農学部の予科(当時高等学校は帝大予科であった)にいたので私の方は先方を先輩として顔を知っていた。剣道の副将か何かだったと思うが、小柄で精悍で当るべからざる快漢であった。この間実に久しぶりに顔を合わせることが出来た時、矢張当時の変らない面貌が躍如としているのが愉快だった。
そういうことはどうでもいいが、山田氏が地代論に就いては推しも推されもしない権威を広く認められているに拘らず、一二の特別な雑誌其他を除いては、あまり普通の評論雑誌ジャーナリズムの上で筆を執らないため、或いはあまり有名でないかも知れぬと思って、特に読者の注意を喚起しておくのである。大学を罷めた理由については、深く知らないし、又やたらに穿鑿するのも考えものだと思うが、何か左翼運動に加わっていた学生に金か有価証券を貸してやったというようなことに由来していたようだ。
九大の法文学部は最近までいつも教授間の騒動が絶えない処だが、思想問題の名目で九大の所謂左翼的教授(向坂・石浜の諸氏)がやめる前に、木村(亀二)・杉ノ原・風早・滝川・佐々其他の一連の若冠教授達が、喧嘩両成敗の意味もあって馘になっている。まだ大学に赴任しない内、ヨーロッパに留学中のこの教授達が、パリーのレストーランかどこかで教授会議を開いた頃から、風雲が急だったそうで、それが遂に爆発したのだと云われている。併し恐らく之は必ずしも普通の意味での勢力争いや何かではなかったらしく、案外学術の研究態度の内容にまで這入った一種の思想問題が最後の原因ではなかったろうかと思う。現に結局残ったものは藤沢親雄氏というような人物だったので、この人も最近になって九大をやめたが、それは追い出されたのではなくて「日本精神文化研究所」の所員に出世した結果だったのだ。誰に聞いても、思い切って悪口を云われている人だから、今ここに重ねて説明することを差し控えるけれども、少くとも氏がこの頃唱えたり説明したりしている皇道主義というものは、もう一段と技巧の余地があるのではないかと、私《ひそ》かに私は考えている。
木村氏は最近まで牧野英一教授の研究室の人で、現に法政大学の教授であるけれども、実は法政には過ぎ者の教授の内に数えられている。私の知る限りでは、刑法学者らしく又社会学者らしく頭の整理された人であって、曽つて雑誌に発表したサヴィニーの研究や、「多数決の原理」の論文は、仲々示唆に富んだものだった。木村氏と喧嘩をしたのは同じ刑法学者の風早八十二氏であるが、これは九州を追われると上京していて、中央大学につとめていた処、法学全集で治安維持法の批判をやったのが発禁になると共に、総長の原××が検事のような態度で追い出して了ったようだ。当時所謂「インタ」や「産業労働時報」を出していた唯一の大衆的調査機関だった「産業労働調査所」に這入り、貧窮のドン底で仕事を続けていたと聞いている。やがて地下に潜って検挙《あ》げられた人だ。死刑廃止論の古典であるベッカリヤを訳して詳しい研究をつけて出版したことは、記憶されねばならぬ。それから杉ノ原氏は上京後日大の講師をしていたが、シンパ網の中心として挙げられたことは有名である。杉ノ原氏との関係から一網打尽にやられた教授は決して少なくないようだ。
同じく九大を追われた滝川政次郎氏は、東京で三つか四つの大学の教授か講師をしている間に、中央大学でだったと思うが、法学博士になって了った。多少とも左翼的色彩を持ったことのある人で後にこういう社会科学方面の学位をとったことは、異例に数えられる。かつて左翼のシンパとも目された人で医学博士になった人(例えば安田徳太郎氏)はないではないが、それでも京大の太田武夫氏などはそうした種類の単なる懸念が理由で、文部省から医学博士を認可して貰えなかった。滝川(政)氏が博士になれたのは、多分同じ法制史でも日本の法制史の研究だったからではないかと思う。いずれにしてもこの滝川博士がこの間満州の新しい法律専門学校の教授として、赴任したというから、目出度い。
私の記憶の誤りでなかったとすれば、杉ノ原氏の件に関係して検挙された教授に、商大の大塚金之助氏と日大の羽仁五郎氏とがいる。経済学史家としての大塚氏の能力は世間周知のもので、挙げられる直前まで最近のヨーロッパの詳しい経済学史乃至経済思想史を改造誌上で展開して、読者、特に相当水準の高い学生達に大いに期待を持たれたものだ。(氏は学生読者層に人望のある点で平野義太郎氏と好一対だという話だ。)河上博士がその説得力に富んだ健筆を振えなくなり、資本論の飜訳も中途半端になっている時だったから、河上博士の或る意味での後継者としての氏の位置には特別なものがあったのだ。尤も河上博士の一種悲壮に近い闘志に充ちた筆致に較べると、大塚氏のは一種ホロ甘い蒸気につつまれているので、その印象は説得的であるよりも咏嘆的だと云ってもいいかも知れない。一つにはこの福田門下の偉才は同時に優れた詩人であり(氏のゲーテ研究
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