は農村の子女の救済に不向きだということが結論出来ないだろうか。
尤も之は何も婦人達に就いてばかり云っているのではなく、青森県で出来た「農村婦女子離村防止委員会」(市町村長・警察署長・職業紹介所長等からなる)や山形県下の「娘を売るな!座談会」などの、道徳[#「道徳」に傍点]に就いても、云いたいことなのである。元来道徳は、ニーチェではないが、いつでも婦人的なものだから。
新潟県では愛国婦人会が、身売り志願者に金を貸して、職業紹介をしてやることにし、金は返せなければ返せないでも仕方がないという、ことにしたそうであるが、之は救済手続きとしては何よりも率直で実際的だ。百の委員会よりも、千の座談会よりも、或いは何十万円の「涙金」よりも価値があるだろう。処が貧農の娘達を職業紹介すると云えば、今日は何と云っても一般に最も労働条件の悪い女中奉公になるわけで、愛国婦人会の奥様方は之を利用して、うまく女中探しをやることになるわけだ。当然之は娘達の農村離脱を結果するので、これに照して見ると、先に云った青森の「離村防止委員会」はやや勘違いではなかったのかと気がつくのだが、併し人身売買の防止から出発して、青森県の例でも一等多数を占めていた女中出稼を奨励することは之は婦人会側の多少の勘違いを意味しはしないのか。尤も多少の勘違いはあろうがなかろうが、何も考えず何も実行しないよりは増しなのは云うまでもない。ただ要点は依然として婦人道徳[#「婦人道徳」に傍点]の限界が災の種だということだ。
東朝系と東日系との義捐金競争は、之又涙ぐましい美談だろう。例の婦人団体を後援したものは東京朝日新聞であるが、東京日日新聞は之に対して「東北振興会」なるものを後援して遂に之を奮い起たせた。この会は東北地方の産業発展を目的とするために設立されたものだそうだが、それが東日に促されて初めて義捐金募集に乗り出したというのである。これ等の義捐金募集運動によって、都下の市民・小市民の醵出した義捐金は無論莫大な額に上る。
処で内務省の全高等官は今後半カ年間年俸の五分を割いて農村に捧げることを申し合わせ、農民ばかりではなく後藤文夫内務大臣をも喜ばせた。この風俗は官吏の全部に行き亘って、事務次官会議では、各省高等官は俸給月額の少くとも百分の一を醵出して農村に送ることを申し合わせた。大蔵省の計算によると、之は全国で少くとも月額六万円に達する見込みだそうだ。陸軍部内では、単に醵金するばかりでは軍部らしくないとして、陸軍部内の武官文官打ち揃って、組織的な救済運動をやろうということになった。それから東京・長野・新潟・宮城・其他の府県の地方官吏も亦続々として減俸による醵金を決定したと伝えられる。警視庁の高等官も俸給の百分の三を、今後六カ月に亘って割くことになり、判任官も之に呼応するらしいという状勢になって来た。――三菱は前に二百万円を寄付したが、三井が今度三百万円寄付したので、百万円足して三井同様三百万円にすることにした。其他様々。
今や日本は上下を通じて、日夜東北救済義捐金の醵出に夢中である。曽つての国防基金の醵出の風俗などは今ではどこへ行ったか姿も見せない。今にして判るが、日本人はこんなに人間的同情に富み、義勇の道徳が身につき、こんなにも社会事情に敏感で熱心であるのだ。――処が私は不幸にしてあまりこうした浮気な同情や道徳やセンシビリティーを信用出来ないのである。同情や道徳やセンシビリティーが、婦人団体のように貞淑で浮気だからばかりではない。もう少し他に理由があるのである。
一体同情というものは、云わば人間界に発生した自然現象について生じるという特性を有っている。商売に失敗して首が廻らなくなったということでは、あまり同情の対象にはならぬ。お説教の対象にはなっても人間の道徳的皮膚感触を触発するものではない。之に反して火事で焼け出されたり不慮の病気で食えなくなったりしたのは、同情の一等優秀な模範的な対象になる。病気など実は大部分一つの社会現象なのだが、之を同情の対象とするためには無理にも之を人間界の一つの自然現象にして了わなければ、どうも都合が悪い。
つまり同情というのは、社会現象ならばお説教すべき処を、自然現象として見るのでお説教の代りに持ち出されるものなのだ。病気でも多少科学的に取り扱い出すと、病人の日常生活に対する医者先生の養生法の説教一つきりになるのであって、又之を天帝や為政者の怒りや不徳の致す処にして了えば再び天帝や為政者の責任問題になって了うので、いずれももはや同情の対象ではなくなって了う。同情とは「自然現象」に対する社会人の原始的な反作用である。
処で東北地方の凶作飢饉がなぜ現在このようにセンセーショナルな同情[#「同情」に傍点]の対象になっているかというと、単に世間の人達の意識が甘くて、婦人団体を道徳上の模範としているばかりではなく、更に進んで、この同情を守り、この道徳を傷つけないために、東北地方問題を専ら一つの自然現象[#「自然現象」に傍点]として見ようと努力しているその努力が立派に報いられたからなのである。
成程凶作だったから農民が食えなくなったに相違はない。併し仮に豊作であっても飢饉にならないとは保証出来ない、という過去の事実を、世間人の浮気な同情は、まさかスッカリ忘れて了っているわけでもあるまい。所が凶作は冷害の可なり不可避な結果だったから、そして飢饉はこの凶作の結果なのだから、東北の飢饉の原因は冷害[#「冷害」に傍点]にあるというのが世間の人達の同情の原因なのである。
安藤広太郎・寺尾博・岡田武松・藤原咲平等の農学及び気象学の学者達が集って、農相官邸で「冷害対策懇談会」を開いて、色々面白い研究が発表された。水温が低いと凶作となり又不漁になるとか、火山の爆発が冷害凶作の遠い原因にもなっているとか、注目すべき統計上の結果が公にされた。自然科学的な乃至は純技術的な観念からすれば、冷害対策はこの種のものとおのずから限定されるのは云うまでもない。
だが判らないのは農林省当局の意図であって、なぜ農林省は東北の飢饉[#「飢饉」に傍点]を凶作[#「凶作」に傍点]に、凶作を冷害[#「冷害」に傍点]に、それから冷害を気象的地質的現象[#「気象的地質的現象」に傍点]に、すりかえるのかという点だ。まさか火山の爆発を鎮圧したり、日本の水温を温めたりして、今後続くだろう東北農民の貧困を防止しようとは思っていないだろうが。同じく根本的[#「根本的」に傍点]に永久的[#「永久的」に傍点]な対策ならば、もう少し現実的に利き目の著しい対策がありそうなものだ。一体凶作の問題は「米」の問題ではないか。農林省が東北問題対策として一等先に之に気づかないというのは、どうした次第なのか、吾々には判らない。
政府は政府で、「東北振興審議会」なるものの官制制定に多忙を極めている。一、内閣所属とし会長は総理大臣之に当り、内務農林両相を副会長とす、云々というわけだ。政府は天文台か地震研究所でも造るような、床しさを示している。――私は例の婦人方の純真な「同情」が、このような色々な冷静なる研究態度に変形して行くのを見て、お気の毒に思う他はない。併し何しろ、事件が「自然現象」である限り、そして態度が「同情」である限り、そうなるのも已むを得ないことだ。
内務省は国立栄養研究所の原徹一博士を東北地方に派して、冷害地の栄養調査を行わせた。之は「冷害対策行動」の内で、可なり意味のある行動の一つに数えていいだろうと思う。その調査結果によると、明年の四五月頃が一等農民の弱い目が現われて来る危険期だろうというのだ。処で原博士の所感だが、「貧農の救済は一刻も躊躇はならぬ、しかし、僕の痛感したのは中農の悲惨な実状である。かれ等は平素相当な生活をしていたため、現在ではその所有品を売払ひ、その上、働いても食がない、こうした中農の救済についても当局は大いに考慮してやってもらいたい、」云々(東日十一月七日付)。之で見ると政府は、専ら貧農を救済していることになるが、私は今迄政府が救済するのは、中農小地主以上だとばかり信じていた。だが、博士はここで科学者として語っているのではなくて、一個の例の「同情」者として話しているのだから、あまり信用する義務はあるまい。ここでも結論は「同情」に帰着しているからだ。
東北の冷害という「自然現象」に対する渦巻く同情の嵐を他処にして、社会現象[#「社会現象」に傍点]としては、同地方の小作争議は年末と寒さに向って刻々に深刻化して行っている。今年は一月から九月迄の間に全国に四千の小作争議が発生したが、前年よりも五百件多い割になっている。その内小作人側から小作継続を要求するものが実に六十二パーセントを占めているというのだ。青森県などでは各町村に小作争議防止委員会を組織せしめ、相不変、町村長・警察署長・農会技師を始めとして、地主代表と小作人代表とを夫々一名ずつ会商せしめることにしているそうだ。農村陳情団は到る処、国元の駅頭で阻止されているとも聞いている。窮乏農村には「自治返上」の叫びをさえ挙げている処があるそうである。でこう見ると、東北地方の問題は、どうも矢張自然現象ではなくて、従って「同情」の対象としてはやや不向きで、遺憾ながら一個の社会現象だということになる。
社会現象とあれば、東北の冷害は、独り米穀問題ばかりでなく、偉大な軍事予算の問題や、対軍縮会議兵力量の問題などと切り離しては意味がない筈で、そこまで行くと、問題は愈々「同情」や何かでは×××せなくなるのである。東北地方の救済と、軍事予算との、数量上の連関を、ハッキリと私に教えて呉れる人はいないか。(一九三四・一一)
[#地から1字上げ](一九三四・一二)
[#改段]
試験地獄礼讃
田舎の或る女学校に勤めていた私の友人が、遂々校長と喧嘩をして追い出された。同僚の先頭に立って、校長排斥をやった処、校長はイッカな動こうとしなかったので、社会的な質量の軽い方の彼が、反作用によって追い出されて了ったのである。校長排斥の理由は彼によると数え切れない程あるのであって、どれ一つとして現在の公立中等学校、中でも女学校の校長という地位を特徴的に物語っていないものはないのであり、どれも必ずしもこの校長の人格だけに固有な特徴として非難されるべきものはないのだが、その内に一つ、次のような笑って済ませない理由が含まれていた。
県当局に対して万事ぬかりのないこの校長は、実は同時に仲々卓越した人間通だという結論になる。彼は部下の若い女教諭に命じて、卒業間近かの小学校の女生徒の家を訪問させて、自分の女学校へ入学することを勧誘させたのである。尤も近所には通えるような学校はあまり無いのだから、他の女学校へ行かずに自分の女学校へ来い、と云って勧誘するのではなく、娘さんをとに角女学校というものにお入れなさい、と云って勧めるのである。別に秀才や天才児の家庭を選んで勧めて歩くのではなく、四年間か五年間通学させるだけの学費の出せる家庭でさえあればいいのだから、その内には低能で始末の悪いのもいるだろう。それを承知で勧誘する以上は、入学させてから矢鱈に落第させたり何かは出来ない。でつまり落第はさせない、四年なら四年で卒業させる、という請負をして歩かせるわけである。それはまあいいとして、友人が一等憤慨したのは、校長がこの女教諭に対して、特にお白粉を塗って行くように注意したという点なのだ。
敏感な友人のことだから、この注意を何か特別に売笑的なものと感じて憤慨したのだろうが、併しこの程度の売笑性ならば寧ろ社交性や服飾道徳にさえ数えられるべきもので、美人であることは夫だけとして見れば秀才であることと同じ自然的素質なのだから、秀才にあやかるために、又は益々秀才振りを発揮するために勉強するのが良いことであるように、お化粧をすることは良いことなのだ。娘の両親でもお祖父さんでもお祖母さんでも、綺麗な先生に勧誘されれば、あまり綺麗でない先生に勧められるよりも、気が進むのは自然である。校長の奇知は
前へ
次へ
全41ページ中30ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング